取《つかみどり》のないと思った世の中に、これはうまい話と、親子連で瞽者《ごぜ》の真似《まね》、かみさんが「片輪でござい」裏長屋に住む人までが慾には恥も外聞も忘れて来ました。七十にもなりそうな婆さんまでが、※[#「※」は「あしへん+珍のつくり」、27−18]跛《ちんば》ひきひき前垂に白米を入れて貰いまして、門を出ると直ぐ人並に歩いたには、呆《あき》れました。
昼過に、旦那様は紫|袱紗《ふくさ》を小脇に抱《かか》えながら、一寸帰っておいでなさいました。私は鶏に餌をくれて、奥様の御部屋の方へ行って見ますと、御二人で御話の御様子。何の気無しに唐紙の傍に立って、御部屋を覗きながら聞耳を立てました。旦那様は御羽織を脱捨てて、額の汗を御|拭《ふ》きなさるところ。
「ねえ、綾さん、こういう時にはそんな顔をしていないで、もうすこし快くしてくれなくちゃ張合がないじゃないか。それに、今日は御祝だもの、奉公人だって遊ばせてやるがいいやね」
「ですから、いくらでも遊んでおいでッて言ったんです」
「それ、そう言われるから誰だって出られないやね、――まあ、そうじゃないか。綾さんはこの節奉公人ばかし責めるようなことを言うが、そんなに為《し》たって不可《いけない》。お定にしろ、あの爺さんにしろ、高が人に遣《つか》われてるものだ」
「誰も責めやしません」
「責めないって、そう聞えらア」
「私が何時責めるようなことを言いました」
「お前の調子が責めてるじゃないか」
「調子は私の持前です」
「お前が御父さんに言う時の調子と、今のとは違うように聞えるぜ」
「誰が親と奉公人と一緒にして物を言うような、そんな人があるものですか。こんなところで親の恥まで曝《さら》さなくってもようござんす」
「奇異《きたい》なことを言うね」
「ああ、奉公人まで引合に出して、親の恥を曝されるのかなア」
「解らない人だ。そんな訳で親を担出《かつぎだ》したんじゃ無し、――奉公人は親位に思っていなくて、使われると思うのかい。……然し、そんな事はどうでもいい。まあ、今日は一つ綾さんに喜んで貰《もら》おう」
と御機嫌を直しながら、旦那様は紫袱紗を解《ほど》いて桐の小箱の蓋を取りました。白絹に包《くる》んだのを大事そうに取除《とりの》けて、畳の上に置いたは目も覚めるような黄金《きん》の御盃。折畳んであった奉書を披《ひろ》げて見せて、
「今日の御祝に、これは銀行から私へくれたのだ。まあ、私に取っては名誉な記念だ。そら、盃の中に名前が彫ってあるだろう。御覧よ、この奉書には種々《いろいろ》文句が書いてある」
「拝見しました」
「もっと能《よ》く見ておくれ。そんな冷淡な挨拶《あいさつ》があるものか。折角こうして、お前に見せようと思って持って来たものを……何とか、一言位」
「ですから拝見しましたと言ってるじゃ有ませんか」
旦那様は口を噤《つぐ》んで了いました。御互に物を仰らないのは、仰るよりも猶《なお》か冷い心地《こころもち》がしましたのです。旦那様は少許《すこし》震えて、穴の開く程奥様の御顔を熟視《みつめ》ますと、奥様は口唇《くちびる》に微《かすか》な嘲笑《さげすみわらい》を見《みせ》て、他の事を考えておいでなさるようでした。やがて、旦那様は御盃を取上げて、熟々《つくづく》眺めながら歎息《ためいき》を吐《つ》いて、
「そう女というものは男の事業《しごと》に冷淡なものかな。今までは、もうすこし同情《おもいやり》が有るものかと思っていた」
「どうせ私なぞに貴方がたの成さる事は解りません」
「無論さ。何も解って貰おうとは言やしない。同情が無いと言ったんだ。男の事業が解る位なら、そんな挨拶の出来よう筈《はず》もない。まあ、私の言うことを能く聞いてくれ。自慢をするじゃアないが、今日《こんにち》小諸の商業は私の指先一つでどうにでも、動かせる。不景気だ、不景気だ、こう口癖のように言いながらも、小諸の商人が懐中《ふところうち》の楽なのは、私が銀行に巌張《がんば》っているからだ。町会の事業でも、計画でも、皆私の意見を基にしてやっている。小諸が盛んになるも、衰えるも、私の遣方《やりかた》一つにあるのだ。その私が事業《しごと》の記念だと言って、爰《ここ》へこうして並べて、お前に見て喜んで貰おうとしているのに……アハハハハハハ」
と、旦那様は熱い涙を手に持った黄金の御盃へ落しました。
やがて、御盃や御羽織を掻浚《かきさら》うようになすって、旦那様は御部屋から御座敷の方へいらっしゃる。御様子がどうも尋常《ただ》ではないと、私も御後から随いて行って見ました。もうもう堪《こら》えきれないという御様子で、突然《いきなり》、奉書を鷲掴《わしづか》みにして、寸断々々《ずたずた》に引裂いて了いました。啜泣《すすりなき》の涙は男らしい御顔を流
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