、是方《こっち》の弱身になることはありません。思いつめた御心から掻口説《かきくど》かれて見れば、終《しまい》には私もあわれになりまして、染々《しみじみ》御身上《おみのうえ》を思遣りながら言慰《いいなぐさ》めて見ました。奥様は私の言葉を御聞きなさると、もう子供のように御泣きなさるのでした。
拠《よんどころ》なく、私も引受けて、歯医者に逢わせる御約束をしましたら、漸《やっ》と、その時、火のように熱い御手が私から離れたようにこころづきました。
その晩は、私も仮《ほん》の出来心で、――若い内に有勝《ありがち》な量見から。
然し、悪戯《いたずら》が悪戯でなくなって、事実《ほんとう》も事実《ほんとう》も恐しい事実になって行くのを見ては、さすがに私も震えました。私は後暗いと、恐しいとで、噂さを嗅附《かぎつ》ける犬のようになって、御人の好い旦那様にまで吠《ほ》えました。
或時は自分で責められるような自分の心を慰めて見たこともありましたのです。全く道ならぬ奥様の恋とは言いながら、思の外のあわれも有ましたので。人の知らない暗涙《なみだ》は夜の御床に流れても、それを御話しなさるという女の御友達は有ませんので。ですから、私は独り考えて、思い慰めました。
さ、それです。
奥様は暖い国に植えられて、軟《やわらか》な風に吹かれて咲くという花なので。この荒い土地に移されても根深く蔓《はびこ》る雑草《くさ》では有ません。こうした御慣れなさらない山家住《やまがずまい》のことですから、さて暮して見れば、都で聞いた田舎生活《いなかぐらし》の静和《しずかさ》と来て視《み》た寂寥《さびしさ》苦痛《つらさ》とは何程《どれほど》の相違《ちがい》でしょう。旦那様は又た、奥様を籠の鳥のように御眺めなさる気で、奥様の独り焦《じれ》る御心が解りませんのでした。何時《いつ》、羽根を切られた鳥の心が籠に入れて楽しむという飼主に解りましょう。何程、世間の奥様が連添う殿方に解りましょう。――女の運はこれです。御縁とは言いながら、遠く御里を離れての旅の者も同じ御身上《おみのうえ》で、真実《ほんと》に同情《おもいやり》のあるものは一人も無い。こればかりでも、女は死にます。奥様の不幸《ふしあわせ》な。歓楽《たのしみ》の香《におい》は、もう嗅いで御覧なさりたくも無いのでした。奥様は歎《な》き疲《くたぶ》れて、乾いた草のように萎《しお》れて了いました。思えば御無理も御座ません――活《い》き返るような恋の雨が、そこへ清《すず》しく降りそそいで来たのですから。
丁度、秋草のさかりで、歯医者の通う路《みち》は美しゅうございました。
三
十月の二十日は銀行に十五年の大祝というのが有ました。旦那様に取ては一生のうちに忘れられない日で、彼処《あそこ》でも荒井様、是処《ここ》でも荒井様、旦那様の御評判は光岳寺の鐘のように町々へ響渡りました。長いお功労《ほねおり》を賛《ほ》めはやす声ばかりで。
その朝は、私も早く起きて朝飯の用意をしました。台所の戸の開捨てた間から、秋の光がさしこんで、流許《ながしもと》の手桶《ておけ》や亜鉛盥《ばけつ》が輝《ひか》って見える。青い煙は煤[#底本では「媒」の誤り]《すす》けた窓から壁の外へ漏れる。私は鼻を啜《すす》りながら、焚落《たきおと》しの火を十能に取って炉へ運びましても、奥様は未だ御目覚が無い。熱湯《にえゆ》で雑巾を絞《しぼ》りまして、御二階を済ましても、まだ御起きなさらない。その内に、炉に掛けた鍋は沸々と煮起《にた》って、蓋の間から湯気が出るようになる。うまそうな汁の香が炉辺《ろばた》に満ち溢《あふ》れました。
八時を打っても、未だ奥様は御寐《おやすみ》です。旦那様は炉辺で汁の香を嗅いで、憶出《おもいだ》したように少許《すこし》萎れておいでなさいました。やがて、御独で御膳を引寄せて、朝飯を召上ると、もう銀行からは御使でした。そそくさと御仕度をなすって、黒七子《くろななこ》の御羽織は剣菱《けんびし》の五つ紋、それに茶苧《ちゃう》の御袴《おはかま》で、隆《りゅう》として御出掛になりました。私は鍋を掛けたり、下したりしていると、漸《ようよ》う九時過になって、奥様は楊枝を銜《くわ》えながら台所へ御見えなさいました、――恐しい夢から覚めたような目付をなすって。もう味噌汁《おみおつけ》も煮詰って了ったのです。
その日は御祝の印といって、旦那様の御思召《おぼしめし》から、門に立つものには白米と金銭《おかね》を施しました。
一体、旦那様は乞食が大嫌いな御方で、「乞食を為《す》る位なら死んでしまえ」と叱※[#「※」は「口へん+它」、27−14]《しかりとば》す位ですから、こんなことは珍しいのです。その日は朝から哀な声が門前に聞えました。それを又た聞伝えて、掴
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