褒め下さるのは、いつも謎《なぞ》です、――御器量自慢でいらっしゃるのですから。その時も私の方から、御褒め申せば、もう何よりの御機嫌で、羽翅《はがい》を張《ひろ》げるように肩を高くなすって、御喜悦《およろこび》は鼻の先にも下唇にも明白《ありあり》と見透《みえす》きましたのです。
「ねえ、お定、お前は吾家《うち》へ来る御客様のうちで、誰様《どなた》が一番|好《いい》とお思いだえ」
「そうで御座ますねえ……まあ、奥様から仰《おっしゃ》って見て下さい」
「否《いいえ》、お前からお言いよ」
「私なぞは誰様が好か解りませんもの」
「あれ、そうお前のように笑ってばかりいちゃ仕様がない」
「それじゃ笑わずに申しますよ。ええ、と、銀行の吉田さん」
「いやよ、あんな老爺染《じじいじみ》た人は――戯《ふざ》けないでさ。真実《ほんとう》に言って御覧」
私はそれから、種々《いろいろ》なお方を数えて申しました。島屋の若旦那、越後屋の御総領、三浦屋の御次男、荒町の亀惣《かめそう》様、本町の藤勘様――いずれ優劣《おとりまさり》のない当世の殿方ですけれど、成程奥様の御話を伺って見れば、たとえ男が好くて持物等の嗜《たしなみ》も深く、何をさせても小器用なと褒められる程の方でも、物事に迷易くて毎《いつ》も愚痴ばかりでは頼甲斐《たのみがい》のない様にも有《あり》、世智賢《せちがしこ》くて痒《かゆ》いところまで手の届く方は又た女を馬鹿にしたようで此方の欠点《あら》まで見透されるかと恐しくもあるし、気前が面白ければ銭遣《ぜにづかい》が荒く、凝性《こりしょう》なれば悟過ぎ、優しければ遠慮が深し、この方ならばと思うような御人《おひと》は弱々しくて、さて難の無い御方というのは、見当らないのでした。
「そんなら、奥様、あの桜井さんは」
「そうお前のように、私にばかり言わせて……お前も少許《ちったあ》言わなくちゃ狡猾《ずる》いよ。あの方をお前はどう思うの」
「桜井さんで御座いますか。実《ほんと》に歯医者なぞをさして置くのは惜しいッて、人が申すんで御座いますよ」
「ホホホホホ、それじゃ何に御成《おなん》なされば好と言うの」
「あの、官員様にでも……」
「ホホホホホ」
「あれ、女であの方を褒めない者は御座ません。奥様、貴方《あなた》も桜井さん贔負《びいき》じゃ御座ませんか」
奥様は目を細くなさいました。何とも物は仰いませんでしたけれど、御顔を見ているうちに、美しい朱唇《くちびる》が曲《ゆが》んで来て、終《しまい》に微笑《にっこりわらい》になって了いました。
洋燈《ランプ》の側にうとうとしていた猫が、急に耳を振って、物音に驚いたように馳出《かけだ》したので、奥様も私も殿方の御噂さを休《や》めて聞耳を立てていますと、須叟《やがて》猫は御部屋へ帰って来て、前|脚《あし》を延しながら一つ伸《のび》をして、撓垂《しなだれ》るように奥様の御膝へ乗りました。御子様がないのですから、奥様も恰《さ》も懐しそうに抱〆《だきしめ》て、白い頬をその柔い毛に摺付《すりつけ》て、美しい夢でも眼の前を通るような溶々《とけどけ》とした目付をなさいました。
つい側に針箱が有ました。奥様はそれを引寄せて、引出のなかから目も覚めるような美しい半|襟《えり》を取出して、「こないだから、これをお前に上げよう上げようと思っていたんだよ」
と仰りながら私に掴《つか》ませました。夜のことですから、紫|縮緬《ちりめん》が小豆《あずき》色に見えました。私は目を円くして、頂いてよいやら、悪いやらで、さんざん御断りもして見たのです。
「あれ、お前のようにお言《いい》だと、私が困るじゃないか。そんなに言う程の物じゃないんだよ。お前がよく勤めておくれだから、寸《ほん》の私の志と思っておくれ。……いいからさ、それは仕舞ってお置き」
奥様はまだ何か言いたそうにして、それを言得ないで、深い歎息《ためいき》を御吐《おつ》きなさるばかりでした。危い絶壁《がけ》の上に立って、谷底でも御覧なさるような目付をなさりながら、左右を見廻して震えました。「お前だから話すがねえ」までは出ましても、二の句が口|籠《ごも》って、切れて了います。
「今夜私がお前に話すことは、決して誰にも話さないという約束をしておくれ。それを聞かないうちは――然しお前に限ってそんな軽卒《かるはずみ》なことはあるまいけれど」
幾度も念を押して、まだ仰り悪《にく》いという風でしたが、さて話そうとなると、急に御顔が耳の根元までも紅くなりました。
遂々《とうとう》奥様は御声をちいさくなすって、打開けた御話を私になさいました。その時、私は始めて歯医者とのこれまでの関係を聞きましたのです。私は手を堅く握〆られて、妙に顔が熱《ほて》りました。他《ひと》から内証を打開《うちあ》けられた時ほど
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