れましたのです。御一人で小諸を負《しょ》って御立ちなさる程の旦那様でも、奥様の心一つを御自由に成さることは出来ません。微々《ちいさ》な小諸の銀行を信州一と言われる位に盛大《おおき》くなすった程の御腕前は有ながら、奥様の為には一生の光栄《ほまれ》も塵埃《ごみくた》同様に捨てて御了いなすって、人の賛《ほ》めるのも羨《うら》やむのも悦《うれ》しいとは思召さないのでした。これが他の殿方ででもあったら、奥様の御髪《おぐし》を掻廻《つかみまわ》して、黒|縮緬《ちりめん》の御羽織も裂けるかと思う位に、打擲《ぶちたたき》もなさりかねない場合でしょう。並勝《なみすぐ》れて御人の好い旦那様ですから、どんな烈《はげ》しい御腹立の時でも、面と向っては他《ひと》にそれを言得ないのでした。旦那様は御自分の髪の毛を掻毟《かきむし》って、畳を蹴《け》って御出掛《おでまし》になりました。ぴしゃんと唐紙を御閉めなすった音には、思わず私もひょろひょろとなりましたのです。
 私は御部屋へ取って返して、泣き伏した奥様をいろいろと言慰《いいなだ》めて見ましたが、御返事もなさいません。すこし遠慮して、勝手へ来て見れば、又たどうも気掛《きがかり》になって、御二人のことばかりが案じられました。
 黄昏《ゆうがた》に、私は水汲をして手桶を提げながら門のところまで参りますと、四十|恰好《かっこう》の女が格子前《こうしさき》に立っておりました。姿を視れば巡礼です。赤い頭巾《ずきん》を冠せた乳呑児を負いまして、鼠色の脚絆《きゃはん》に草鞋穿《わらじばき》、それは旅疲《たびやつれ》のしたあわれな様子。奥様は泣|腫《はら》した御顔を御出しなすって、きょうの御祝の御余《おあまり》の白米や金銭《おかね》をこの女に施しておやりなさるところでした。奥様が巡礼を御覧なさる目付には言うに言われぬ愁《うれい》が籠っておりましたのです。
「私にその歌を、もう一度聞かしておくれ」
 と奥様が優しく御尋ねなさると、巡礼は可笑《おかし》な土地|訛《なまり》で、
「歌でござりますか、ハイそうでござりますか」
 寂しそうに笑って、やがて、鈴を振鳴して一節《ひとふし》唄いましたのは、こうでした。
  ちちははのめぐみもふかきこかはでら
  ほとけのちかきたのもしのみや
 日に焼けた醜《まず》い顔の女では有りましたが、調子の女らしい、節の凄婉《あわれ》な、凄婉なというよりは悲傷《いたま》しい、それを清《すず》しい哀《かな》しい声で歌いましたのです。世間を見るに、美《い》い声が醜《まず》い口唇《くちびる》から出るのは稀《めずら》しくも有ません。然し、この女のようなのも鮮《すくな》いと思いました。一節歌われると、もう私は泣きたいような心地《こころもち》になって、胸が込上げて来ました。やがて女は蒼《あおざ》めた顔を仰《あ》げて、
  ふるさとやはるばるここにきみゐでら
  はなのみやこもちかくなるらん
「故郷や」の「や」には力を入れました。清《すず》しい声を鈴に合せて、息を吸入れて、「はるばるここに」と長く引いた時は女の口唇も震えましたようです。「花の都も」と歌いすすむと、見る見る涙が女の頬を伝いまして、落魄《おちぶれ》た袖にかかりました。奥様は熟々《つくづく》聞|惚《ほ》れて、顔に手を当てておいでなさいました――まあ、どんな御心地《おこころもち》がその時奥様の御胸の中を往たり来たりしたものか、私には量りかねましたのです。歌が済みますと、奥様は馴々《なれなれ》しく、
「今のは何という歌なんですね」
「なんでござります。はァ、御|詠歌《えいか》と申しまして、それ芝居なぞでも能くやりますわなア――お鶴が西国巡礼に……」
「お前さんは何処《どこ》ですね」
「伊勢でござります」
「まあ、遠方ですねえ」
「わしらの方は皆こうして流しますでござります。御詠歌は西国三十三番の札所《ふだしょ》々々を読みましてなア」
「どっちの方から来たんですね」
「越後路《えちごじ》から長野の方へ出まして、諸方を廻って参りました。これから御寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
 その時、爺さんが恍《とぼ》けた顔を出して、
「あんな乞食の歌を聞いて何にする」
 と聞えよがしに笑いました。
「これはこれはどうも難有《ありがと》うござります。どうも奥様、御蔭様で助かりますでござります」
 巡礼は泣き出した児を動揺《ゆすぶ》って、暮方の秋の空を眺《なが》め眺め行きました。
 爺さんは奥様を笑いましたけれど、私はそうは思いませんので。熟々《しみじみ》奥様があの巡礼の口唇を見つめて美《い》い声に聞惚れた御様子から、根彫葉刻《ねほりはほり》御尋ねなすった御話の前後《あとさき》を考えれば、あんな落魄《おちぶれ》た女をすら、まだしもと御|羨《うらや》みなさる
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