持ち、地梨が紅く咲いた草土手を枕にして、青麦を渡る風に髪を嬲《なぶ》らせながら、空を通る浅間の鷹《たか》を眺めて寝そべっているような楽しさを考えました。夜も更《ふ》けて来るにつれ、寝苦しく物に襲われるようで、戸棚を囓《かじ》る鼠も怖しく、遠い人の叫とも寂しい水車の音とも判《つ》かぬ冬の夜の声に身の毛が弥立《よだ》ちまして、一旦吹消した豆|洋燈《ランプ》を点けて、暗い枕|許《もと》を照しました。何度か寝返を打って、――さて眠られません。青々とした追憶《おもいで》のさまざまが、つい昨日のことのように眼中《めのなか》に浮んで来ました。もう私の心にはこの浮華《はで》な御家の御生活《おくらし》が羨しくも有ません。私は柏木のことばかり思続けました。流行謡《はやりうた》を唄って木綿機《もめんばた》を織っている時、旅商人《たびあきんど》が梭《おさ》の音《ね》を賞めて通ったことを憶出《おもいだ》しました。岡の畠へ通う道々妹と一緒に摘んだ野苺《のいちご》の黄な実を憶出しました。楽しい菱野《ひしの》の薬師参を憶出しました。大酒呑の父親《おやじ》が夕日のような紅い胸を憶出しました。父親と母親とで恐しい夫婦|喧嘩《げんか》をして、母親が「さあ、殺せ、殺すなら殺せ」と泣叫んだことも憶出しました。終《しまい》には私が七つ八つの頃のことまで幽《かす》かに憶出しました。すると熱い涙が流れ出して、自分で自分を思いやって泣きました。髪は濡れ、枕紙も湿りましたのです。思い労《つか》れるばかりで、つい暁《あけがた》まで目も合いません。物の透間《すきま》が仄白《ほのじろ》くなって、戸の外に雀の寝覚が鈴の鳴るように聞える頃は、私はもう起きて、汗臭い身体に帯〆て、釜の下を焚附《たきつ》けました。
私も奥様に蹴《け》られたままで、追出される気は有ません。身の明りを立てた上で、是方《こちら》から御暇を貰って出よう、と心を決めました。あまりといえば袖《つれ》ない奥様のなされかた、――よし不義のそもそもから旦那様の御耳に入れて、御気毒ながらせめてもの気晴《きばらし》に、奥様の計略の裏を掻いてくれんと、私は女の本性を顕したのです。もうその朝は復讐《かたきうち》の心より外に残っているものは無いのでした。
炉に掛けた雪平《ゆきひら》の牛乳も白い泡を吹いて煮立ちました頃、それを玻璃盞《コップ》に注いで御二階へ持って参りますと
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