う私の増長したのには呆《あき》れて了った、到底《とても》私のような性《しょう》の悪い女は奥様に役《つか》えないということを御話しなさいましたのです。
 私は全身《まるで》耳でした。
「何だ、そんな高い声をして――聞えるじゃないか」と言うのは旦那様の御声。
「否《いいえ》、使に行って居りませんよ」
「その話は今止そう。私は非常に忙しい身だ。これから直ぐに銀行へ出掛けなくちゃならないんだ。……なにしろ、そんな者には早く暇をくれて了うがいい」
 と言捨てて、旦那様は御立ちなさる御様子。
 私は呆れもし、恐れもしました。油断のならぬ世の中。奥様のあの美しい朱唇《くちびる》から、こんな御言葉が出ようとは私も思掛ないのです。浅はかな、御自分の罪の露顕する怖しさに、私を邪魔にして追出そうとは――さてはと前の日の夢の御話も思当りました。私は表へ飛出して、夢中で雪道をすたすたと歩いて、何の買物をしたかも分らない位。風呂敷包を抱〆《だきしめ》て、口惜しいと腹立しいとで震えました。主人を卑《けな》すという心は一時に湧《わき》上る。今まで、美しいと思った御自慢の御器量も、羨《うらやま》しいと思った華麗《はで》な御風俗《おみなり》も、奥様の身に附いたものは一切卑す気に成りました。怒の情は今までの心を振い落す。御恩も、なさけも、思う暇が有ません。もうその時の私は、藁草履《わらぞうり》穿《は》いて、土だらけな黒い足して、谷間《たにあい》を馳歩《かけある》いた柏木の昔に帰って了いました。私は野獣《けもの》のような荒い佐久女の本性に帰って、「御母さん、御母さん」と目的《あてど》もなく呼んで、相生町の通まで歩いて参りました。
 橋の畔《たもと》に佇立《たたず》んで往来を眺めると、雪に濡れた名物|生蕎麦《きそば》うんどんの旗の下には、人が黒山のように群《たか》っておりました。雪を払《か》いていた者は雪払《ゆきかき》を休《や》める、黄色い真綿帽子を冠った旅人の群は立止る、岩村田|通《がよい》の馬車の馬丁《べっとう》は蓙掛《ござがけ》の馬の手綱《たづな》を引留めて、身を横に後を振返って眺めておりました。その内に、子守の群が叫びながら馳けて来て、言触らして歩きます。聞けば、千曲川《ちくまがわ》へ身を投げた若い女の死骸《しがい》が引上げられて、今蕎麦屋の角まで担《かつ》がれて来たとの話。一人の子守が「菊屋に奉公
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