は二度も三度も捕《つかま》りそうにして、終《しまい》には御召物まで脱捨てて、裸体《はだかみ》になって御逃げなすったんだそうです。いよいよ林檎畠の隅へ追い詰められて、樹と樹との間へ御身体が挟《はさま》って了って、もう絶体絶命という時に御目が覚めて見れば――寝汗は御かきなさる、枕紙は濡《ぬ》れる、御寝衣《おねまき》はまるで雫《びっしょり》になっておったということでした。一体、奥様は私共の夜のようじゃ無い、一寸した仮寝《うたたね》にも直ぐ夢を御覧なさる位ですから、それは夢の多い睡眠《ねむり》に長い冬の夜を御明しなさるので、朝になっても又た克《よ》くそれを忘れないで御話しなさるのです。「私の一生には夢が附|纏《まと》っている」と、よく仰いました。こういう風ですから、夢見が好《いい》につけ、悪《わるい》につけ、それを御目が覚めてから気になさることは一通りで無いのでした。奥様は今までが今までで、言うに言われぬ弱味が御有なさるのですから、御心配のあまり、私までも御疑いなさるような言《こと》を二度も三度も仰いました。奥様は短い一夜の夢で、長い間の味方までも御疑いなさるように成ましたのです。――風雨《あらし》待つ間の小鳥の目の恐怖《おそれ》、胸毛の乱れ、脚の戦慄《わななき》、それはうつして奥様の今の場合を譬《たと》えられましょう。
 三番の上《のぼり》汽車で旦那様は御帰になりました。御茶を召上りながら長野の雪の御話、いつになく奥様も打解けて御側に居《いら》っしゃるのです。私は買物を言付かって、出掛しなに縁を通りますと、御話声が障子越に洩《も》れて来る、――どうやら私のことを御話しなさる御様子。
 立竦《たちすく》んで息を殺して聞いて見ました。奥様はこんなことを旦那様に御話しなさるのでした。さ、その御話しというのは、あれも紛失《なくな》った、これも紛失った、針箱の引出に入れて置いた紫縮緬の半襟も紛失ったと御話しなさいました。どうも変だと思召《おぼしめ》して私の風呂敷包の中を調べて見ると、その半襟やら帯上やら指輪やらが出て来たと御話しなさいました。私が井戸端で御主人の蔭口を利《き》いて、いらざる事を言触らして歩いたと御話しなさいました。それから、又、私が我儘《わがまま》に成ったことから、或時なぞは牛乳配達の若い男が後から私の首筋へ抱着いたところを見たものがあると御話しなさいました。もうも
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