底へ押込んで御覧なさるやら、まだそれでも気になって取出しました。壁に高く掛けてありました細《こまか》な女文字の額の蔭に隠しても、何度かその下を歩いて御覧なすって、未だ御安心になりませんのです。この小な写真一枚の置処が有ません。終《しまい》には御自分の懐《ふところ》に納《い》れて、帯の上から撫でて御覧なさりながら、御部屋の内をうろうろなさいました。
 文箱《ふばこ》の中から出ましたのは、艶書《ふみ》の束です。奥様は可懐《なつかし》そうにそれを柔《やわらか》な頬に磨《す》りあてて、一々|披《ひろ》げて読返しました。中には草花の色も褪《さ》めずに押されたのが入れてある。奥様は残った花の香を嗅《か》いで御覧なすって、恍惚《しげしげ》とした御様子をなさいました。旦那様に見られてはならないものですから、その艶書は一切引裂いて捨てて御了いなさる御積でしたが、さて未練が込上げて、揉みくちゃにした紙を復[#「復」は底本では「腹」と誤記、51−2]た延して御覧なすったり、裂いた片《きれ》を繋合《つなぎあ》わせて御覧なすったりして――よくよく御可懐《おなつかしい》と思召すところは、丸めて、飲んで御了いなさいました。
「屑《くず》屋でござい。紙屑の御払はございませんか」
 と呼んで来たのを幸、すっかり掻浚《かきさら》って、籠《かご》に積《たま》った紙屑の中へ突込んで売りました。屑屋は大な財布を出して、銭の音をさせながら、
「へえ、毎度難有う存じます。それでは三銭に頂戴して参ります」
 と言って、銅貨を三つ置いて行きました。
 その日は奥様も思い沈んで身の行末を案じるような御様子。すこし上気《のぼ》せて、鼻血を御出しなさいました。御気分が悪いと仰って、早く御休みになりましたが、その晩のように寝苦しかったことも、夢見の悪かったことも、今までに無い怖《おそろ》しい目に御出逢なすったと、翌朝になって伺いました。落々《おちおち》御休みになれなかったことは、御顔色の蒼《あおざ》めていたのでも知れました。奥様の御話に、その晩の夢というのは、こう林檎畠《りんごばたけ》のような処で旦那様が静かに御歩きなすっていらっしゃると、密《そっ》と影のように御傍へ寄った者があって、何か耳語《みみこすり》をして申上げたそうです。すると、旦那様は大した御立腹で、掴掛《つかみか》かるような勢で奥様を追廻したというんです。奥様
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