着ていらっしゃらないんですか」
「なんだか私は……こう急に気分が悪く成りましたから、今夜は帰ります」
「お帰りなさるたッて、このまあ雪に……。貴方の着物は未だ乾かないじゃ有ませんか」
「なあに、構いません。尻端《しりはし》を折れば大丈夫」
「まあ、真実《ほんとう》に御帰りなさるんですか。それじゃ、あんまりですわ……」
 歯医者は躊躇《もじもじ》して、帽子を拈《ひね》っておりましたが、やがて萎《しお》れて坐りました。
「無理に御留め申しませんから……もう少し居て下さいな」
「然し、またあんまり遅くなると……」
「遅くなったって好じゃありませんか。まあもうすこし」
「そう仰らずに、今夜だけは帰して下さい」
「そんなら、もう二十分」

    五

 誰言うとなく、いつ伝わるともなく、奥様の浮名が立ちました。万《よろず》御注進の髪結が煙草を呑散した揚句、それとなく匂わせて笑って帰りました時には、今まで気を許していらしった奥様も考えて、薄気味悪く思うようになりました。銀行からは毎日のように旦那様の御帰を聞きによこす。長野からも御便《おたより》が有ました。御客様は外の御連様と別所へ復廻《おまわり》とやらで、旦那様よりも御帰が一日二日遅れるということでした。それは短い御手紙で、鼠色の封袋《ふうじぶくろ》に入れてありましたが、さすが御寂しいので奥様も繰返し読んで御覧なすって、その御手紙を見ても旦那様の不風流な御気象が解ると仰いました。いよいよ御帰という前の日、奥様は物を御調べなさるやら御隠しなさるやらで、気を御揉みなさいましたのです。
 肌身離さず御持なすった写真が有ました。それは男に活写《いきうつ》し、判《はん》は手札《てふだ》形とやらの光沢消《つやけし》で、生地から思うと少許《すこし》尤《もっとも》らしく撮《と》れてはいましたが、根が愛嬌《あいきょう》のある容貌《おもばせ》の人で、写真顔が又た引立って美しく見えるのですから、殿方ならいざ知らず、女に見せては誰も悪《にく》むものはあるまいと思う程。頬の肉付は豊麗《ふっくり》として、眺め入ったような目元の愛くるしさ、口唇《くちびる》は動いて物を私語《ささや》くばかり、真に迫った半身の像は田舎写真師の技《わざ》では有ませんのです。奥様はそれを隠す場処に困って、机の引出へ御入れなさるやら、針箱の糸屑の下へ御納いなさるやら、箪笥の着物の
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