来た父親《おやじ》よりも、逢いに来ない母親《おふくろ》の心が恋しくも哀しくも思われました。歯医者は熟《じっ》と物を考えて、思い沈んでおりましたのです。奥様はその顔を覗くようになすって、
「桜井さん、何をそんなに考込んでいらっしゃるの」
「成程――さすがは親だ」
「大層感心していらっしゃるのねえ」
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」
「そういうものかなア」
「あれ、復《また》」
「そうだ、もう半年も手紙を遣らない」
「誰方《どなた》のところへ」
「なにも私は御恩を忘れて御|無沙汰《ぶさた》をしてるんじゃ無いけれど……」
「まあ、好笑《おかし》いわ」
「つい、多忙《いそがし》くッて手紙を書く暇も無いもんだから」
「貴方、何を言っていらっしゃるの」
「え、私は何か言いましたか」
「言いましたとも。もう半年も手紙を遣らないの、御恩を忘れはしないの、手紙を書く暇がないのッて、――必《きっ》と……思出していらっしゃるんでしょう」と奥様は私の方へ御向きなすって、
「ねえ、お定、桜井さんは御|容子《ようす》が好《よく》っていらっしゃるから……」
「止して下さい。貴方はそう疑《うたぐ》り深いから厭さ」と男はすこし真面目《まじめ》になって、「こうなんです――まあ、聞いて下さい。私には義理ある先生が有ましてね、今|下谷《したや》で病院を開いているんです。私もその先生には、どんなに御世話に成ったもんだか知れません。全く、先生は私を子のように思って、案じていて下さるんで。私がこれまでに成ったというのも、先生の御蔭ですからね。ですから、『貴様は友達の出世するのを見ても羨ましくはないか、悪※[#「※」は「あしへん+宛」、48−13]《わるあがき》も好加減にしろ』なんて平素《しょっちゅう》御小言を頂戴するんです。……先生の言う通りだ――立身、出世、私はもうそんな考が無くなって了った。私の心を占領してるのは……貴方、貴方ばかりです。ああ、昔の友人《ともだち》と競争した時代から見ると、私も余程これで変ったんですなア」
 と言って、稍《やや》暫時《しばらく》奥様の御顔を見つめておりましたが、やがて、思付いたように立上りました。見れば今まで着ていた裾の長い糸織を脱いで、自分の着物に着替えようとしましたから、奥様も不思議顔に、
「何故、それを
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