上りませんか」
「沢山」
「そう、そんなら私頂きましょう」
「え、召上るんですか。――然し、もう御廃《およ》しなさいよ」
「何故、私が酔ってはいけませんの」
「貴方のは無理な御酒なんだから」
「それじゃ未だ私の心を真実《ほんとう》に御存《ごぞんじ》ないのですわ。私はこうして酔って死ねば、それが何よりの本望ですもの」
無理やりに葡萄酒の罎《びん》を握《つか》ませて、男の手の上に御自分の手を持添えながら、茶呑茶椀へ注ごうとなさいました。御二人の手はぶるぶると戦《ふる》えて、酒は胡燵掛《こたつがけ》の上に溢《こぼ》れましたのです。奥様は目を閉《つぶ》って一口に飲干して、御顔を胡燵《おこた》に押宛てたと思うと、忍び音に御泣きなさるのが絞るように悲しく聞えました。唐紙に身を寄せて聞いて見れば、私も胸が込上げて来る。男は奥様を抱くようにして、御耳へ口をよせて宥《なだ》め賺《すか》しますと、奥様の御声はその同情《おもいやり》で猶々《なおなお》底止《とめど》がないようでした。私はもう掻毟《かきむし》られるような悶心地《もだえごこち》になって聞いておりますと、やがて御声は幽《かすか》になる。泣逆吃《なきじゃくり》ばかりは時々聞える。時計は十時を打ちました。茶を熱く入れて香《かおり》のよいところを御二人へ上げましたら、奥様も乾いた咽喉《のど》を霑《しめ》して、すこしは清々《せいせい》となすったようでした。急に、表の方で、
「御願い申しやす」
それは酔漢《よいどれ》の声でした。静な雪の夜ですから、濁った音声《おんじょう》で烈《はげ》しく呼ぶのが四辺《そこいら》へ響き渡る、思わず三人は顔を見合せました。
「誰だろう」と奥様は恐《こわ》がる。
「御願い申しやす、御休みですか」
歯医者はもう蒼青《まっさお》になって、酒の酔も覚めて了いました。震えながらきょろきょろと見廻して、目も眩《くら》んだようです。逃隠れをしようにも、裾の長い着物が足|纏《まと》いになって、物に躓《つまず》いたり、滑《すべ》ったりする。罎は仆《たお》れて残った葡萄酒が畳へ流れました。
半信半疑で聞いていた私も、三度呼ばれて見れば、はッと思いました。父親《おやじ》の声に相違ないのです。
「奥様、吾家《うち》の御父《おとっ》さんで御座ますよ」
奥様は屏風《びょうぶ》の蔭にちいさくなっていた男の手を執って、押入のなかに
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