忍ばせました。私は立って参りまして表の戸を開けながら、
「御父さん、何しに来たんだよ……今頃」
「はい、道に迷ってまいりやした」と舌も碌々《ろくろく》廻りません様子。
「仕様がないなア、こんなに遅くなって人の家へ無暗《むやみ》に入って来て」
 親とは言ながら奥様の手前もあり、私は面目ないと腹立《はらだた》しいとで叱《しか》るように言いました。もう奥様は其処へいらしって、燈火《あかり》に御顔を外向《そむ》けて立っておいでなさるのです。
「お定の御父さんですか」
「否《いいえ》、そうじゃごわしねえ。私《わし》は東京でごわす」
 と恍《とぼ》け顔に言|淀《よど》んで、見れば手に提げた菎蒻《こんにゃく》を庭の隅《すみ》へ置きながら蹣跚《よろよろ》と其処へ倒れそうになりました。
「これ、さ、そんな処へ寝ないで早く御行《おいで》よ」
「まあ、いいから其処へ暫く休ませて遣《や》るが好《いい》やね」
「こんなに酔ったと言っちゃ寝てしまって仕方がありません。これ、御行《おいで》よ」
「そこですこし御休みなさい」
「はい」と父親《おやじ》は上框《あがりがまち》へ腰を掛けながら、
「私はお定さんに惚れて来やした」
「早く去《い》っとくれよ。こんなに遅くなって人の家へ酔って来たりなんかして」
「そう言うな。十月余《とつきあまり》も逢わねえじゃねえか。顔が見たくはねえか……」
 奥様は炉辺の戸棚《とだな》を開けて、玻璃盞《コップ》を探しながら、
「水でも一つ上げましょう」
「見ろ、奥様はあの通り親切にして下さる、……時にお定、今幾時だ」
「十二時」と私は虚言《うそ》を吐《つ》いてやりました。
「なに、十……」と険《けわ》しい声で、
「十一時半」
「さあ水を御上り」と奥様はなみなみ注いだのを下さる。
「難有うごわす。ええ、ぷ、私《わし》は今夜芸者……を買って、四五円くれて了った。復《また》、私はこれから行って、……そ、そ、その、飲もうというんで」
「大変酔ったものだね」
「これ、早く御帰りよ。まるでその姿《なり》は雫《しずく》じゃないか、――傘も持たず」
「洋傘《こうもり》は買ったけれども、美代助にくれて来やした。ええ、ぷ、……なあ奥様《おくさん》、一服頂戴して」
「煙草なんか呑まなくても好《いい》から、さっさと御行《おいで》」
「さあ、煙草盆を上げますよ」
 と出して下さる。その御顔を眺めて
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