御客様は丸い腮《あご》を撫《な》で廻しながら、
「婆さんもね、早く孫の顔を見たいなんて、日常《しょっちゅう》その噂《うわ》さばかりさ。どうだね、……未だそんな模様は無いのかい」
奥様は俯《うつむ》いて、御顔を紅らめて、御返事をなさいません。やがて懐しそうに、
「御父《おとっ》さん、羽織を着|更《か》えていらッしゃいよ」
「なに、これで結構。こりゃお前上等だもの」
「それでもあんまりひどい」
「この羽織は十五年からになりますがね、いいものは丈夫ですな」
御客様は袖《そで》口を指で押えて、羽翅《はがい》のように展《ひろ》げて見せました。遽《にわか》に思直して、
「こうっと。面倒だけれど――それじゃ一つ着更えるか」
と御自分の御包を解《ほど》いて、その中から節糸紬《ふしいとつむぎ》の御羽織を抜いて、無造作に袖を通して御覧なさいました。
「あれ、其方《そっち》のになさいよ」
「これかね。どうして、お前、此方の着物を着た時の羽織さ。ね、――この羽織で結構」
「でも何だかそれじゃ好笑《おかし》いわ。それを御着なさる位なら、まだ今までの方が好《いい》のですもの」
御客様は茶の平打《ひらうち》の紐《ひも》を結んで、火鉢の前にべたりと坐って御覧なさいました。急に、ついと立ってまたその御羽織を脱ぎ捨てながら、
「それじゃ、これだ――もともとだ。アハハハハハハ」
奥様がそれを引寄せて、御畳みなさるところを、御客様は銜煙管《くわえぎせる》で眺入って、もとの御包に御納《おしま》いなさるまで、熟《じっ》と視ていらっしゃいました。思いついたように、
「ハハハハ、婆さん紋付なんか入れてよこした」
こういう罪もない御話を睦《むつ》まじそうになすっていらっしゃるところへ、旦那様も御用を片付けて、御二階から下りておいでなさいました。見る見る旦那様の下唇には嫉《ねたまし》いという御色が顕《あらわ》れました。御客様は急《せ》き立てて、
「さあ、出掛けましょう。もう三十分で汽車が出ますよ」
御二人とも厚い外套《がいとう》を召して御出掛になりました。爺さんも御荷物を提げて、停車場まで随いて参りました。後で、取散かった物を片付けますと、御部屋の内は煙草の烟《けむり》ですこし噎《む》せる位。がらりと障子を開けて、御客様の蒲団《ふとん》や、掻巻《かいまき》や、男臭い御|寝衣《ねまき》などを縁へ乾しました
前へ
次へ
全44ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング