御独《おひとり》になると、奥様は総桐の箪笥《たんす》から御自分の御召物を出して、畳直したり、入直したり、又た取出したりして御眺めなさる――それは鏡に映る御自分の御姿に見惚《みとれ》ると同じような御様子をなさるのでした。全く御召物は奥様の御身の内と言ってもよいのですから。私も御側へ寄添いまして見せて頂きました。どれを拝見しても目うつりのする衣類《もの》ばかり。就中《わけても》、私の気に入りましたのは長襦袢です。それは薄|葡萄《ぶどう》の浜|縮緬《ちりめん》、こぼれ梅の裾《すそ》模様、※[#「※」は「ころもへん+施のつくり」、36−17]《ふき》は緋縮緬《ひぢりめん》を一分程にとって、本紅《ほんこう》の裏を附けたのでした。奥様はそれを御膝の上に乗せて、何の気なしに御婚礼の晩御召しなすったということを、私に話して聞かせました。不図《ふと》、御自分の御言葉に注意《こころづ》いて、今更のように萎返《しおれかえ》って、それを熟視《みつめ》たまま身動きもなさいません。死《しん》だ銀色の衣魚《しみ》が一つその袖から落ちました。御顔に匂いかかる樟脳《しょうのう》の香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶《おもいで》が御胸の中を往たり来たりするという御様子で、私が御側に居ることすら忘れて御了いなすったようでした。
「ああああ着物も何も要らなくなっちゃった」
 と仰《おっしゃ》りながら、その長襦袢を御抱きなすったまま、さんざん思いやって、涙は絶間《とめど》もなく美しい御顔を流れました。
 その日は珍しく暖で、冬至近いとも思われません位。これは山の上に往々《たびたび》あることで、こういう陽気は雪になる前兆《しらせ》です。昼過となれば、灰色の低い雲が空一面に垂下る、家《うち》の内は薄暗くなる、そのうちにちらちら落ちて参りました。日は短し、暗さは暗し、いつ暮れるともなく燈火《あかり》を点《つけ》るようになりましたのです。爺さんも何処《どっか》へ行って飲んで来たものと見え、部屋へ入って寝込んで了いました。台所が済むと、私は奥様の御徒然《おさむしさ》が思われて、御側を離れないようにしました。時々雪の中を通る荷車の音が寂しく聞える位、四方《そこいら》は※[#「※」は「もんがまえ+貝」、37−13]《ひっそり》として、沈まり返って、戸の外で雪の積るのが思いやられるのでした。御一緒に胡燵《おこた》にあた
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