凄婉なというよりは悲傷《いたま》しい、それを清《すず》しい哀《かな》しい声で歌いましたのです。世間を見るに、美《い》い声が醜《まず》い口唇《くちびる》から出るのは稀《めずら》しくも有ません。然し、この女のようなのも鮮《すくな》いと思いました。一節歌われると、もう私は泣きたいような心地《こころもち》になって、胸が込上げて来ました。やがて女は蒼《あおざ》めた顔を仰《あ》げて、
  ふるさとやはるばるここにきみゐでら
  はなのみやこもちかくなるらん
「故郷や」の「や」には力を入れました。清《すず》しい声を鈴に合せて、息を吸入れて、「はるばるここに」と長く引いた時は女の口唇も震えましたようです。「花の都も」と歌いすすむと、見る見る涙が女の頬を伝いまして、落魄《おちぶれ》た袖にかかりました。奥様は熟々《つくづく》聞|惚《ほ》れて、顔に手を当てておいでなさいました――まあ、どんな御心地《おこころもち》がその時奥様の御胸の中を往たり来たりしたものか、私には量りかねましたのです。歌が済みますと、奥様は馴々《なれなれ》しく、
「今のは何という歌なんですね」
「なんでござります。はァ、御|詠歌《えいか》と申しまして、それ芝居なぞでも能くやりますわなア――お鶴が西国巡礼に……」
「お前さんは何処《どこ》ですね」
「伊勢でござります」
「まあ、遠方ですねえ」
「わしらの方は皆こうして流しますでござります。御詠歌は西国三十三番の札所《ふだしょ》々々を読みましてなア」
「どっちの方から来たんですね」
「越後路《えちごじ》から長野の方へ出まして、諸方を廻って参りました。これから御寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
 その時、爺さんが恍《とぼ》けた顔を出して、
「あんな乞食の歌を聞いて何にする」
 と聞えよがしに笑いました。
「これはこれはどうも難有《ありがと》うござります。どうも奥様、御蔭様で助かりますでござります」
 巡礼は泣き出した児を動揺《ゆすぶ》って、暮方の秋の空を眺《なが》め眺め行きました。
 爺さんは奥様を笑いましたけれど、私はそうは思いませんので。熟々《しみじみ》奥様があの巡礼の口唇を見つめて美《い》い声に聞惚れた御様子から、根彫葉刻《ねほりはほり》御尋ねなすった御話の前後《あとさき》を考えれば、あんな落魄《おちぶれ》た女をすら、まだしもと御|羨《うらや》みなさる
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