て大笑い、一人の御客様は目から涙を流しながら、腹を抱《かか》えて笑いました。終《しまい》には皆さんが泣くような声を御出しなさると、尖った鼻の御客様は頭を擁《かか》えて、御座敷から逃出しましたのです。
私も旦那様がこれ程であろうとは思いませんでした。人程見かけに帰《よ》らない者はありません。これから気を注《つ》けて視《み》ると、黒髪《かみ》も人知れず染め、鏡を朝晩に眺《なが》め、御召物の縞《しま》も華美《はで》なのを撰《よ》り、忌言葉《いみことば》は聞いたばかりで厭《いや》な御顔をなさいました。殊《こと》に寝起の時の御顔色は、毎《いつ》も微《すこ》し青ざめて、老衰《おいおとろ》えた御様子が明白《ありあり》と解りました。智慧《ちえ》の深そうな目の御色も時によると朦朧《どんより》潤みを帯《も》って、疲れ沈んで、物を凝視《みつめ》る力も無いという風に変ることが有ました。私は又た旦那様の顎《あご》から美しく白く並んだ御歯が脱出《はずれ》るのを見かけました。旦那様は花やかに若く彩《いろど》った年寄の役者なのです。住慣れて見れば、それも可笑《おか》しいとは思いません。御二人の御年違も寧《いっ》そ御似合なされて、かれこれと世間から言われるのが悲しいと懐《おも》う様になりましたのです。
奥様は御器量を望まれて、それで東京から御縁組《おかたづき》に成ったと申す位、御湯上りなどの御美しさと言ったら、女の私ですら恍惚《ほれぼれ》となって了う程でした。旦那様が熟《じっ》と奥様の横顔を御眺めなさるときは、もう何もかも忘れて御了いなすって、芝居好が贔負《ひいき》役者に見惚《みとれ》るような目付をなさいます。聞けばこの奥様の前に、永いこと連添った御方も有たとやら、無理やりの御離縁も畢竟《つまり》は今の奥様|故《ゆえ》で、それから御本宅と新宅の交情《なか》が自然氷のように成ったということでした。
譬《たと》えて申しましょうなら、御本宅や御親類は蜂《はち》の巣です。其処へ旦那様が石を投げたのですから、奉公人の私まで痛い噂《うわ》さに刺されました。
しかし、山家が何程《どれほど》恐しい昔|気質《かたぎ》なもので、すこし毛色の変った他所者《よそもの》と見れば頭から熱湯《にえゆ》を浴せかけるということは、全く奥様も御存《ごぞんじ》ない。そこが奥様は都育《みやこそだち》です。御親類の御女中方は、いずれ
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