死ぬ程の苦《くるしみ》をいたしました。農家の女の労苦《つらさ》はどれ程でしょう――麦刈――田の草取、それから思えば荒井様の御奉公は楽すぎて、毎日遊んで暮すようなものでした。野獣《けもの》のように土だらけな足をして谷間《たにあい》を馳歩《かけある》いた私が、結構な畳の上では居睡《いねむり》も出ました位です。
 何一つ御不足ということが旦那様と奥様の間《なか》には有ません。唯御似合なさらないのは御年です。ある日のこと、下座敷へ御客様が集りました。旦那様は細《こまか》い活版刷の紙を披《ひろ》げて御覧なさる、皆さんが無遠慮な方ばかりです。「こりゃ甚《ひど》い、まるで読めない」と旦那様はその紙を投出しました。
「成程、御若い方の読むんで、吾儕《われわれ》の相手になるものじゃありません。ここの処なざあ、細い線《すじ》のようです」
 と言いながら、一人の御客様は袂《たもと》から銀縁の大きな眼鏡を取出しました。玉の塵《ほこり》を襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》で拭いて、釣針《つりばり》のように尖《とが》った鼻の上に載せて見て、
「これなら私にも、明瞭《はっきり》とはいきませんけれど……どうかこうか見えます」
「へえ、一寸《ちょっと》その眼鏡を拝借」と他の御客様が笑いながら受取て、「成程、むむ、これなら明瞭します」
 旦那様も笑って反《そ》りかえりました。やがて、瞬《めばたき》をしたり、眼を摩《こす》って見たりして、眼鏡を借りようとはなさいません。
「まあ、眼鏡はもう二三年懸けない積《つもり》です。懸けた方が目の為には好《いい》と言いますけれど」
「ですから、私なざア何か読む時だけ懸けるんです」と眼鏡を出した方は仔細《しさい》らしく。
「驚きましたねえ」とその隣の方が引取って、
「こんなに能《よ》く見えるのかなア。ハハハハ、こりゃ眼鏡を一つ奢《おご》るかな」
 終《しまい》には旦那様も釣込れて、
「拝借」と手を御出しなさいました。
 一人の御客様が笑いながら渡しますと、旦那様も面白そうに鼻の上へ載せて、活版刷の紙を遠く離したり近く寄せたりして御覧でした。
「懸けた工合は……どうですな」と渡した方が旦那様の御顔を覘《のぞ》くようにして尋ねる。
「や、こりゃ能く見える。これを懸ければすっかり読めます」
「ハハハハハ、酷《ひど》いものですなア」
「ハハハハハ」
 と旦那様も手を拍《う》っ
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