石と砂ばかりのようなものでごわす。上州辺と違って碌《ろく》な野菜も出来やせん」
と音吉が言った。
彼は持って来た馬鈴薯の種を植えて見せ、猶《なお》、葱苗《ねぎなえ》の植え方まで教えた。
この高瀬が僅《わず》かばかりの野菜を植え試みようとした畠からは、耕地つづきに商家の白壁などを望み、一方の浅い谷の方には水車小屋の屋根も見えた。細い流で近所の鳴らす鍋《なべ》の音が町裏らしく聞えて来るところだ。激しく男女の労働する火山の裾《すそ》の地方に、高瀬は自分と妻とを見出《みいだ》した。
塾では更に校舎の建増《たてまし》を始めた。教員の手が足りなくて、翌年の新学年前には広岡理学士が上田から家を挙げて引移って来た。
子安という新教員も、高瀬が東京へ行った序《ついで》に頼んで来た。子安は、高瀬も逢ったことが無い。人の紹介だ。塾ではどんな新教員が来るかと皆な待ち受けた。子安が着いて見ると案外心|易《やす》い、少壮《としわか》な学者だ。
こうなると教員室も大分|賑《にぎや》かに成った。桜井先生はまだ壮年の輝きを失わない眼付で、大きな火鉢を前に控えて、盛んに話す。正木大尉は正木大尉で強い香のする刻煙草《きざみたばこ》を巻きながら、よく「軍隊に居た時分」を持ち出す。時には、音吉が鈴を振鳴しても、まだ皆な火鉢の側に話し込むという風であった。
「正木さん、一寸この眼鏡を掛けて御覧なさい」
「まだ私は老眼鏡には早過ぎる――ヤ、これは驚いた――こう側へ寄せたよりも、すこし離した方が猶よく見えますナ――広岡先生、いかが」
「成程、よく見えます」
「ヒドイものですナ――」
こんな話をしても、時は楽しく過ぎた。
近くて湯のある中棚は皆なの交歓に適した場所だった。子安がいくらか土地に馴染《なじ》んだ頃、高瀬も誘われて塾から直ぐに中棚の方へ歩いて行って見た。子安が東京から来て一月ばかり経つ時分には藤の花などが高い崖から垂下って咲いていた谷間が、早や木の葉の茂り合った蔭の道だ。暗いほど深い。
岡の上へ出ると、なまぬるい微《かす》かな風が黄色くなりかけた麦畠を渡って来る。麦の穂と穂の擦《す》れる音が聞える。強い、掩《おお》い冠さって来るような叢《くさむら》の香気《におい》は二人を沈黙させた。二語《ふたこと》、三語《みこと》物を言って見て、復た二人とも黙って歩いた。
崖の道を降りかけて、漸く二人は笑い出した。隠居さんの小屋のあたりで、湯場の方から上って来る正木大尉の奥さんにも逢った。大尉の奥さんは湯上りの好い顔色で、子供を連れて、丁寧に二人に挨拶《あいさつ》して通った。
浴場には桜井先生も広岡学士も来ていた。先生は身体を拭いて上りかけたところで、学士だけ鉱泉の中に心地よさそうに入っていた。硝子《ガラス》戸の外には葡萄《ぶどう》の蔓《つる》も延び延びとして、林檎《りんご》の植えられた畠なども見える。
「子安君はナカナカ好い身体ですネ――」
と学士に言われて、子安は随分苦学もして来たらしい締った毛脛《けずね》を撫《な》でた。
「どうです、我輩の指は」
とその時、学士は左の手をひろげて、半分しかない薬指を出して見せた。
「ホウ」と子安は眼を円くした。
「一寸気が着かないでしょう。これにはそもそも歴史がある――ベエスの記念でサ」
学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨を挫《くじ》かれた指で熱球を受け損じた時の真似《まね》までして見せた。
三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆なを待受顔に窓に近い庭石に水をそそいでいた。先生は石垣の上に試みたアカシヤの挿木《さしき》を高瀬に指して見せた。門の内には先生の好きな花も植えられた。
別荘の入口には楼の名を彫った額も掛った。明るい深い緑葉の反射は千曲川の見える座敷に満ちて、そこに集った湯上りの連中の顔にまで映った。一年に二度ずつ黄色くなる欄《てすり》の外の眺めは緑に調和して画のように見えた。先生は茶を入れて皆なを款待《もてな》しながら、青田の時分に聞える非常に沢山な蛙の声、夕方に見える対岸の村落の灯の色などを語り聞かせた。
間もなく三人は先生一人をこの隠れ家に残して置いて、町の方へ帰って行った。[#「。」は底本では「、」。227−17]学士がユックリユックリ歩くので他の二人は時々足を停めて待合わせては復たサッサと歩いた。
「しかし、女でも何でも働くところですネ」と子安は別れ際《ぎわ》に高瀬に言った。
高瀬も佇立《たちどま》って、「畢竟《つまり》、よく働くから、それでこう女の気象が勇健《つよ》いんでしょう」
「そうです。働くことはよく働きますナ……それに非常な質素なところだ……ですけれど、高瀬さん、チアムネスというものは全くこの辺の娘に欠けてますネ」
子安は心から出た声で快活に笑った。「まるで、ゴツゴツした岩みたような連中ばかりだ」と彼は附添《つけた》した。
「しかし、君、その岩が好くなって来るから不思議だよ」と高瀬は戯れて言った。
子安は先へ別れて行った。鉄道の踏切を越した高い石垣の側で、高瀬はユックリ歩いて来る学士を待受けた。
「高瀬さん、私も小諸の土に成りに来ましたよ」
と学士は今までにない忸々《なれなれ》しい調子で話し掛けて、高瀬と一緒に石垣|側《わき》の段々を貧しい裏町の方へ降りた。
「……私も今、朝顔を作ってます……上田ではよく作りました……今年はウマくいくかどうか知りませんがネ、まあ見に来て下さらんか」
こう歩き歩き高瀬に話し掛けて行くうちに、急にポツポツ落ちて来た。学士は家の方の朝顔|棚《だな》が案じられるという風で、大急ぎで高瀬に別れて行った。
大きな石の砂に埋っている土橋の畔《たもと》あたりへ高瀬が出た頃は、雨が彼の顔へ来た。貧しい家の軒下には、茶色な――茶色なというよりは灰色な荒い髪の娘が立って、ションボリと往来の方を眺めていた。高瀬は途《みち》を急ごうともせず、顔へ来る雨を寧《むし》ろ楽みながら歩いた。そして寒い凍え死ぬような一冬を始めてこの山の上で越した時分には風邪《かぜ》ばかり引いていた彼の身体にも、いくらかの抵抗する力が出来たことを悦《よろこ》んだ。ビッショリ汗をかきながら家へ戻って見ると、その年も畠に咲いた馬鈴薯の白い花がうなだれていた。雨に打たれる乾いた土の臭気《におい》は新しい書籍を並べた彼の勉強部屋までも入って来た。
七月に入って、広岡理学士は荒町裏の家の方で高瀬を待受けた。高瀬の住む町からもさ程離れていないところで、細い坂道を一つ上れば体操教師の家の鍛冶《かじ》屋の店頭《みせさき》へ出られる。高い白壁の蔵が並んだ石垣の下に接して、竹薮《たけやぶ》や水の流に取囲《とりま》かれた位置にある。田圃《たんぼ》に近いだけに、湿気深い。
「お早う」
と高瀬は声を掛けて、母屋《おもや》の横手から裏庭の方へ来た。
深い露の中で、学士は朝顔|鉢《ばち》の置並べてある棚の間をあちこちと歩いていた。丁度学士の奥さんは年長《うえ》のお嬢さんを相手にして開けひろげた勝手口で働いていたが、その時庭を廻って来た。
奥さんは性急《せっかち》な、しかし良家に育った人らしい調子で、
「宅じゃこの通り朝顔狂《あさがおきちがい》ですから、小諸へ来るが早いか直ぐに庭中朝顔鉢にしちまいました――この棚は音さんが来て造ってくれましたよ――まあこんな好い棚を――」
と高瀬に話した。奥さんはユックリ朝顔を眺められないという風に言ったが、夫の好きな花に趣味も持たない人では無いらしかった。彼女は学士が植えて楽む種々《いろいろ》な朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記《そら》んじていた。
「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」
と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のところへ持って行った。鉢を中にして、高瀬に腰掛けさせ、自分でも腰掛けた。
奥さんは子供衆の方にまで気を配りながら、
「これ、繁、塾の先生が被入《いら》しったに御辞儀しないか――勇、お前はまた何だッてそんなところに立っているんだねえ――真実《ほんとう》に、高瀬さん、私も年を取りましたら、気ぜわしくなって困りますよ――」
奥さんの小言の飛沫《とばしり》は年長《うえ》のお嬢さんにまで飛んで行った。お嬢さんは初々《ういうい》しい頬を紅《あから》めて、客や父親のところへ茶を運んで来た。
この子供衆の多勢ゴチャゴチャ居る中で、学士が一服やりながら朝顔鉢を眺めた時は、何もかも忘れているかのようであった。
「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹《ぼたん》種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実《ほんとう》の獅子《しし》や手長と成ったら、どうしても後《おく》れますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯|進《あ》げられるようだと可《い》いんですけれど……」
翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切のところへ出た。線路を渡って行く塾の生徒などもあった。丁度そこで与良町《よらまち》の方からやって来る子安に逢った。毎時《いつも》言い合せたように皆なの落合うところだ。高瀬は子安を待合せて、一諸に塾の方へ歩いた。
線路|側《わき》の柵について先へ歩いて行く広岡学士の後姿も見えた。
「広岡先生が行くナ」と高瀬が言った。
子安も歩き歩き、「なんでもあの先生が上田から通って被入《いら》っしゃる時分には、大変お酒に酔って、往来の雪の中に転がっていたことがあるなんて――そんな話ですネ」
「私も聞きました」
「どうして広岡先生のような人がこんな地方へ入り込んで来たものでしょう」
「それは、君、誰も知らない――」
塾の門前に近いところで、二人は学士に追い附いた。
朝顔の話はそこでも学士の口から出た。
「高瀬さん、今朝も咲きましたよ」
「どうも先生の朝顔はむずかしくッて、私にはまだよく解りません」と高瀬は笑いながら言った。
「町の方でポツポツ見に来て下さる方もあります……好きな人もあるんですネ……しかし私はまだ、この土地にはホントに御|馴染《なじみ》が薄い……」
学士は半ば独語《ひとりごと》のように言った。
正木大尉が桑畠の石垣を廻ってニコニコしながら歩いて来た。皆な連立って教員室の方へ行って見ると、桜井先生は早くから来て詰掛けていた。先生は朝のうちに一度中棚まで歩きに行って来たとも言った。
塾の庭にある樹木の緑も深い。清《すず》しそうなアカシヤの下には石に腰掛けて本を開ける生徒もある。濃い桜の葉の蔭には土俵が出来て、そこで無邪気な相撲《すもう》の声が起る。この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側《たんぼわき》は、高瀬が行っては草を藉《し》き、土の臭気《におい》を嗅ぎ、百姓の仕事を眺め、畠の中で吸う嬰児《あかんぼ》の乳の音を聞いたりなどして、暇さえあれば歩き廻るのを楽みとするところだ。一度消えた夏らしい白い雲が復た窓の外へ帰って来た。高瀬はその熱を帯びた、陰影の多い雲の形から、青空を流れる遠い水蒸気の群まで、見分けがつくように成った。
休みの時間毎に、高瀬は窓へ行った。極く幼少《おさな》い時の記憶が彼の胸に浮んで来た。彼は自分もまた髪を長くし、手造りにした藁《わら》の草履を穿いていたような田舎の少年であったことを思出した。河へ抄《すく》いに行った鰍《かじか》を思出した。榎《え》の樹《き》の下で橿鳥《かしどり》が落して行った青い斑《ふ》の入った羽を拾ったことを思出した。栗の樹に居た虫を思出した。その虫を踏み潰《つぶ》して、緑色に流れる血から糸を取り、酢《す》に漬け、引き延ばし、乾し固め、それで魚を釣ったことを思出した。彼は又、生きた蛙を捕《つかま》えて、皮を剥《は》ぎ、逆さに棒に差し、蛙の肉の一片《ひときれ》に紙を添えて餌《えさ》をさがしに来る蜂《はち》に与え、そんなことをして蜂の巣の在所《あ
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