遅く始めた体操の教師が言った。
「一年の御|稽古《けいこ》でも、しばらく休んでいると、まるで当らない――なんだか冗談のようですナ」強弓をひく方の大尉も笑った。
何となく寂《さ》びれて来た矢場の中には、古城に満ち溢《あふ》れた荒廃の気と、鳴《なり》を潜めたような松林の静かさとに加えて、そこにも一種の沈黙[#「沈黙」に傍点]が支配していた。皮の剥《は》げたほど古い欅の若葉を通して、浅間一帯の大きな傾斜が五月の空に横《よこた》わるのも見えた。矢場の後にある桑畠の方からはサクを切る百姓の鍬《くわ》の音も聞えて来た。そこは灌木《かんぼく》の薮の多い谷を隔てて、大尉の住居にも近い。
学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当るように成った。的も自分で張ったのを持って来て、掛け替えに行った。
「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申《おたのもう》しますぜ」と大尉は新規な的の方を見て矢を番《つが》った。
「ポツン」と体操の教師は混返《まぜかえ》すように。
「そうはいかない」
大尉は弓返《ゆがえ》りの音をさせて、神経的に笑って、復た沈鬱な無言に返った。
桑畠に働いていた百姓もそろそろ帰りかける頃
前へ
次へ
全62ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング