起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路|側《わき》の柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。
「どうも汽車の音が喧《やかま》しくて仕様が有りません。授業中にあいつをやられようものなら、硝子《ガラス》へ響いて、稽古も出来ない位です」
 大尉は一寸高瀬の側へ来て、言って、一緒に停車場の方へ向いた窓から見下した。大急ぎで駈出《かけだ》して行く広岡理学士の姿が見えた。学士は風呂敷包から古い杖まで忘れずに持って、上田行の汽車に乗り後《おく》れまいとした。
 これと擦違《すれちが》いに越後《えちご》の方からやって来た上り汽車がやがて汽笛の音を残して、東京を指して行って了った頃は、高瀬も塾の庭を帰って行った。周囲《あたり》にはあたかも船が出た後の港の静かさが有った。塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに高瀬は独《ひと》り桑畠の間を帰りながら、都会から遁《のが》れて来た自分の身を考えた。彼が近い身の辺《ほとり》にあった見せかけの生活から――甲斐《かい》も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁《のが》れて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素
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