ふくらんだ蕾《つぼみ》を持った、紅味のある枝へは、手が届く。表門の柵《さく》のところはアカシヤが植えてあって、その辺には小使の音吉が腰を曲《かが》めながら、庭を掃《は》いていた。一里も二里もあるところから通うという近在の生徒などは草鞋穿《わらじばき》でやって来た。
 まだ時が早くて、高瀬は先生の室を見る暇があった。教室の上にある二階の角《すみ》が先生のデスクや洋風の書架の置並べてあるところだ。亜米利加《アメリカ》に居た頃の楽しい時代でも思出したように、先生はその書架を背《うしろ》にして自分でも腰掛け、高瀬にも腰掛けさせた。
「好い書斎ですネ」
 と高瀬は言って見て、窓の方へ行った。蓼科《たでしな》の山つづきから遠い南|佐久《さく》の奥の高原地がそこから望まれた。近くには士族地の一部の草屋根が見え、ところどころに柳の梢の薄く青みがかったのもある。遅い春が漸《ようや》く山の上へ近づいて来た。
「高瀬さん、これを一つ君に呈しましょう」
 と言って先生が書架から取出したのは、古い皮表紙の小形の洋書だ。先生は鼻眼鏡を隆《たか》い鼻のところに宛行《あてが》って、過ぎ去った自分の生活の香気《におい》
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