町辺を散歩した……先生にもそういう時代のあったことを知っている。
話し話し二人は歩いた。
坂に成った細道を上ると、そこが旧士族地の町はずれだ。古い屋敷の中には最早《もう》人の住まないところもある。破《こわ》れた土塀《どべい》と、その朽ちた柱と、桑畠に礎だけしか残っていないところもある。荒廃した屋敷跡の間から、向うの方に小諸町の一部が望まれた。
「浅間が焼けてますよ」
と先生は上州の空の方へ靡《なび》いた煙を高瀬に指して見せた。見覚えのある浅間一帯の山脈は、旅で通り過ぎた時とは違って、一層ハッキリと高瀬の眼に映って来た。
先生の住居に近づくと、一軒手前にある古い屋敷風の門のところは塾の生徒が出たり入ったりしていた。寄宿する青年達だ。いずれも農家の子弟だ。その家の一間を借りて高瀬はさしあたり腰掛に荷物を解き、食事だけは先生の家族と一緒にすることにした。横手の木戸を押して、先生は自分の屋敷の裏庭の方へ高瀬を誘った。
先生の周囲は半ば農家のさまだった。裏庭には田舎風な物置小屋がある。下水の溜《ため》がある。野菜畠も造ってある。縁側に近く、大きな鳥籠《とりかご》が伏せてあって、その辺には鶏が遊んでいる。今度の奥さんには子供衆もあるが、都会育ちの色の白い子供などと違って、「坊ちゃん」と言っても強壮《じょうぶ》そうに日に焼けている。
東京の明るい家屋を見慣れた高瀬の眼には、屋根の下も暗い。先生のような清潔好《きれいず》きな人が、よくこのむさくるしい炉辺《ろばた》に坐って平気で煙草が喫《の》めると思われる程だ。
高瀬の来たことを聞いて、逢いに来た町の青年もあった。どうしてこんな田舎へ来てくれたかなどと、挨拶《あいさつ》も如才ない。今度の奥さんはミッション・スクウルを出た婦人で、先生とは大分年は違うが、取廻しよく皆なを款待《もてな》した。奥さんは先生のことを客に話すにも、矢張「先生は」とか「桜井が」とか親しげに呼んでいた。
「高瀬さんに珈琲《コーヒー》でも入れて上げたら可《よ》かろう」
「私も今、そう思って――」
こんな言葉を奥さんと換《かわ》した後、先生は高瀬と一緒に子供の遊んでいる縁側を通り、自分の部屋へ行った。庭の花畠に接した閑静な居間だ。そこだけは先生の趣味で清浄《きれい》に飾り片附けてある。唐本の詩集などを置いた小机がある。一方には先《せん》の若い奥さんの時代からあった屏風《びょうぶ》も立ててある。その時、先生は近作の漢詩を取出して高瀬に見せた。中棚鉱泉の附近は例の別荘へ通う隠れた小径《こみち》から対岸の村落まで先生の近作に入っていた。その年に成るまで真実《ほんとう》に落着く場所も見当らなかったような先生の一生は、漢詩風の詞《ことば》で、その中に言い表してあった。
その晩、高瀬は隣の屋敷の方へ行って、一時借りている部屋で、東京の友人に宛てた手紙を書いた。一間ほど隔てて寄宿する生徒等の何かゴトゴト言わせる音がする。まだ他に部屋を仕切って借りている人達もあると見え、一方の破れた襖《ふすま》の方からは貧しい話し声がボソボソボソボソ聞える。旅の行李の側に床を敷いてからも、場所の違ったのと、鼠の騒ぐのとで、高瀬はよく寝就かれなかった。彼の心はまだ半ば東京の方にあった。自分のために心配していてくれる人達のことなどが、夜遅くまで、彼の胸を往来した。
朝早く高瀬は屋外《そと》に出て山を望んだ。遠い山々にはまだ白雪の残ったところも有ったが、浅間あたりは最早すっかり溶けて、牙歯《きば》のような山続きから、陰影の多い谷々、高い崩壊の跡などまで顕われていた。朝の光を帯びた、淡い煙のような雲も山巓《いただき》のところに浮んでいた。都会から疲れて来た高瀬には、山そのものが先ず活気と刺激とを与えてくれた。彼は清い鋭い山の空気を饑《う》えた肺の底までも呼吸した。
塾で新学年の稽古《けいこ》が始まる日には、高瀬は知らない人達に逢うという心を持って、庭伝いに桜井先生を誘いに行った。早起の先生は時間を待ち切れないで疾《とっ》くに家を出た。裏庭には奥さんだけ居て、主婦らしく畠を見廻っていた。
「でも、高瀬さん、田舎ですね。後の方にある桑畠まで皆なこの屋敷に附いてるんですよ――」
と奥さんは言って聞かせた。
草の芽が見える花畠の間を通って、高瀬は裏木戸から桑畠の小径へ出た。その浅く狭い谷一つ隔てた岡の上が、直ぐ塾の庭だ。樹木の間から白壁だの教室の窓などが見えるところだ。高瀬は谷を廻って、いくらか勾配《こうばい》のある耕地のところで先生と一緒に成った。
「ここへは燕麦《からすむぎ》を作って見ました。私共の畠は学校の小使が作ってます」
先生はその石の多い耕地を指して見せた。
塾の庭へ出ると、桜の若樹が低い土手の上にも教室の周囲《まわり》にもあった。
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