りつつある。
桜井先生は高瀬を連れて、新開の崖の道を下りた。先生がまだ男のさかりの頃、東京の私立学校で英語の教師をした時分、教えた生徒の一人が高瀬だった。その後、先生が高輪《たかなわ》の教会の牧師をして、かたわらある女学校へ教えに行った時分、誰か桜井の家名を継がせるものをと思って――その頃は先生も頼りにする子が無かったから――養子の話まで仄《ほの》めかして見たのも高瀬だった。その高瀬が今度は塾の教員として、先生の下で働きに来た。先生から見れば弟子か子のような男だ。
石垣について、幾曲りかして行ったところに、湯場があった。まだ一方には鉋屑《かんなくず》の臭気《におい》などがしていた。湯場は新開の畠に続いて、硝子《ガラス》窓の外に葡萄棚《ぶどうだな》の釣ったのが見えた。青黒く透明な鉱泉からは薄い湯気が立っていた。先生は自然と出て来る楽しい溜息《ためいき》を制《おさ》えきれないという風に、心地《こころもち》の好い沸かし湯の中へ身を浸しながら、久し振で一緒に成った高瀬を眺《なが》めたり、田舎風な浅黄《あさぎ》の手拭《てぬぐい》で自分の顔の汗を拭《ふ》いたりした。仮令《たとえ》性質は冷たくとも、とにもかくにも自分等の手で、各自《てんで》に鍬《くわ》を担《かつ》いで来て、この鉱泉の脈に掘当てたという自慢話などを高瀬にして聞かせた。
「正木さんなどは、まるで百姓のような服装《なり》をして、シャべルを担いでは遣《や》って来たものでサ……」
何ぞというと先生の話には、「正木さん、正木さん」が出た。先生は又、あの塾で一緒に仕事をしている大尉が土地から出た軍人だが、既に恩給を受ける身で、読みかつ耕すことに余生を送ろうとして、昔|懐《なつか》しい故郷の城址の側に退いた人であることを話した。
「正木さんでも、私でも――矢張《やはり》、この鉱泉の株主ということに成ってます」
と先生は流し場の水槽《みずぶね》のところへ出て、斑白《はんぱく》な髪を濡《ぬ》らしながら話した。
東京から来たばかりの高瀬には、見るもの、聞くもの、新しい印象を受けるという風であった。
二人は浴場を離れて復た崖の道を上った。その中途にある小屋へ声を掛けに寄ると、隠居さんは無慾な百姓の顔を出して、先生から預かっている鍵《かぎ》を渡した。
「高瀬さんに一つ、私の別荘を見て頂きましょう」
と言って先生は崖に倚《よ》った小楼の方へ高瀬を誘って行った。「これが湯の元です」というところを通った。先生は岩の間に造りつけてある黒い扉を開けて高瀬に見せた。そこには、隠れた地の底から涌《わ》いて来たままの鉱泉が淀《よど》んでいた。
「どれ、御案内しましょう。まだ畳もすっかり入れてありません」
先生は隠居さんから受取った鍵で錠前をガチャガチャ言わせて、誰も留守居のない、暗い家の中へ高瀬を案内した。閉めてあった雨戸を繰ると、対岸の崖の上にある村落、耕地、その下を奔《はし》り流れる千曲川が青畳の上から望まれた。
高瀬は欄《てすり》のところへ行って、川向うから伝わって来る幽《かす》かな鶏の声を聞いた。先生も一緒に立って眺めた。
「高瀬さん、この家は見覚えがありましょう――」
先生にそう言われると、高瀬にも覚えがある。高瀬は一度小諸を通って先生の住居を訪ねたことがある。形は変えられたが以前の書斎だ。
「どうせ、この建物はこうしてありますから、皆さんにお貸し申します……御|入用《いりよう》の時は、何時でも御使い下さい」
と言いながら、先生は新規に造り足した部屋を高瀬に見せ、更に楼階《はしごだん》の下の方までも連れて行って見せた。そこは食堂か物置部屋にでもしようというところだ。崖を崩して築き上げた暗い石垣がまだそのままに顕《あら》われていた。
二人は復た川の見える座敷へ戻った。先生は戸棚を開けて、煙草盆などを探した。
「しかし、先生も白く成りましたネ」
と高瀬が言出した。
先生が長い立派な髯《ひげ》を生《はや》したのもこの地方へ来て隠れてからだ。
年はとっても元気の好い先生の後に随《つ》いて、高瀬はやがてこの小楼を出、元来た谷間の道を町の方へ帰って行った。一雨ごとに山の上でも温暖《あたたか》く成って来た時で、いくらか湿った土には日があたっていた。
「桜井先生、あの高輪《たかなわ》の方にあった御宅はどう成さいました」
「高輪の家ですか。あれは君、実に馬鹿々々しい話サ……好い具合に人に胡麻化《ごまか》されて了いました……」
高瀬は先生の高輪時代をよく知っている。あの形勝の好い位置にあった、庭も広く果樹なども植えてあった、恐らく永住の目的で先生が建てた家を知っている。あの時代に居た先生の二度目の奥さんを知っている。あの頃は先生もまだ若々しく、時には奥さんに軽い洋装をさせ、一緒に猿《さる》
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