ばかり揃《そろ》っていて」と言いかけて、学士は思い出したように笑って、「まさか、子供に向って、そんなに食うな、三杯位にして控えて置けなんて、親の身としては言えませんからナ……」
 包み隠しの無い話は高瀬を笑わせた。学士は更に、
「ホラ、勇の下に女の児が居ましょう。上田で生れた児です……真実《ほんと》に親の言うことなどは聞かない……苦しい時代に出来た児はああいうものかと思いますネ……ウッチャリ放しに育った児ですからネ……子などに関ってはおられなかったんです……しかし、考えて見ると、私の家内もよくやって来ましたよ。貧苦に堪《た》える力は家内の方が反って私より強い……」
 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちに微《かす》かに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立《きわだ》って斑白《はんぱく》に見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡坐《あぐら》にやったり、坐り直したりしながら、高瀬の方を見た。そして話の調子を変えて、
「そう言えば、仏蘭西の言葉というものは妙なところに洒落《しゃれ》を含んでますネ」
 と言って、二三の連《つな》がった言葉を巧みに発音して聞かせた。
「私も一つ、先生のお弟子入をしましょうかネ」と高瀬が言った。
「え、すこし御|遣《や》りなさらないか」
「今私が読んでる小説の中などには、時々仏蘭西語が出て来て困ります」
「ほんとに、御一緒に一つ遣ろうじゃありませんか」
 仏蘭西語の話をする時ほど、学士の眼は華やかに輝くことはなかった。
 やがて高瀬はこの家に学士を独り残して置いて、相生町の通りへ出た。彼が自分の家まで歩いて行く間には、幾人《いくたり》となく田舎風な挨拶をする人に行き逢った。長い鬚《ひげ》を生《はや》した人はそこにもここにも居た。

 休みの日が来た。
 高瀬が馬場裏の家を借りていることは、最早《もう》仮の住居とも言えないほど長くなった。彼は自分のものとして自由にその日を送ろうとした。
 南の障子へ行って見た。濡縁《ぬれえん》の外は落葉松《からまつ》の垣だ。風雪の為に、垣も大分|破損《いた》んだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。
 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎《りんご》の幹が高瀬の眼に映った。短い不恰好《ぶかっこう》な枝は、その年も若葉を着けた。微かな甘い香がプンと彼の鼻へ来た。彼は縁側に凭《もた》れて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上《のぼ》せた眼付をしていた。
「なんだか、俺は――気でも狂《ちが》いそうだ」
 と串談《じょうだん》らしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、
「髪でも刈って被入《いら》っしたら」
 と軽い返事をした。
 急に大きな蜜蜂《みつばち》がブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。
「鞠《まあ》ちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。
「屋外《そと》で遊んでます」
「また大工さんの家の娘と遊んでいるじゃないか。あの娘は実に驚いちゃった。あんな荒い子供と遊ばせちゃ困るナア」
「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」
「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家《うち》へ入れないようにしろ――真実《ほんと》に、串談《じょうだん》じゃ無いぜ」
 夫婦は互に子供のことを心配して話した。
 血気|壮《さか》んなものには静止《じっと》していられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚を訪《おとな》うよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。
 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼に展《ひら》けた。五度《いつたび》熟した麦の穂は復た白く光った。土塀《どべい》、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。
 最早青年とも言えなかった。若い細君を迎えて竈《かまど》を持った人だ。しばらく高瀬は畠側の石に腰掛けて、その知人《しりびと》の畠を打つのを見ていた。
 その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土の塊《かたまり》を掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。
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