「桜井先生や、広岡先生には、せめて御|住宅《すまい》ぐらいを造って上げたいのが、私共の希望なんですけれど……町のために御苦労願って……」
とその人は畠に居て言った。
別れを告げて、高瀬が戻りかける頃には、壮んな蛙の声が起った。大きな深い千曲川の谷間《たにあい》はその鳴声で満ち溢《あふ》れて来た。飛騨《ひだ》境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処《ところ》に長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞《さびしさ》は蛙の鳴く谷底の方から匍《は》い上って来た。恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。
「父さん」
と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子《まりこ》と一緒に成った。
「鞠《まあ》ちゃん、吾家《おうち》へ行こう」
と慰撫《なだ》めるように言いながら、高瀬は子供を連れて入口の庭へ入った。そこには畠をする鍬《くわ》などが隅《すみ》の方に置いてある。お島は上《あが》り框《かまち》のところに腰掛けて、二番目の女の児に乳を呑ませていた。
「鞠ちゃんは、先刻《さっき》姉《ねえ》や(下婢)と一緒に懐古園へ遊びに行って来ました」
とお島は夫に話して、復た乳呑児の顔を眺めた。その児は乳房を押えて飲むほどに成人していた。
「俺《おん》にもおくれやれ」と鞠子は母が口をモガモガさせるのに目をつけた。
「オンになんて言っちゃ不可《いけない》の。ね。私に頂戴ッて」
お島はなぐさみに鯣《するめ》を噛《か》んでいた。乳呑児の乳を放させ、姉娘に言って聞かせて、炉辺《ろばた》の戸棚の方へ立って行った。
「さあ、パン上げるから、お出《いで》」と彼女は娘を呼んだ。
「ううん、鞠ちゃんパンいや――鯣」
と鞠子は首を振ったが、間もなく母の傍へ行って、親子でパンを食った。
「鞠ちゃんにくれるくれるッて言って、皆な母ちゃんが食って了う」と鞠子は甘えた。
この光景《さま》を笑って眺めていた高瀬は自分の方へ来た鞠子に言った。
「これ、悪戯《いたずら》しちゃ不可《いけない》よ」
「馬鹿、やい」と鞠子はあべこべに父を嘲《あざけ》った。――これが極く尋常《あたりまえ》なような調子で。
高瀬は歎息して奥へ行った。お島が茶を入れて夫の側へ来た時は、彼は独り勉強部屋に坐っていた――何事《なんに》もせずに唯、坐っていた。
「なんだか俺は心細く成って来た。仕方が無いから、こうして坐って見てるんだ」
と高瀬は妻に話した。
その日の夕方のことであった、南の戸袋を打つ小石の音がした。誰か屋外《そと》から投げ込んでよこした。
「誰だ」
と高瀬は障子のところへ走って行って、濡縁の外へ出て見た。
「人の家へ石など放り込みやがって――誰だ――悪戯《いたずら》も好い加減にしろ――真実《ほんとう》に――」
忌々しそうに言いながら、落葉松《からまつ》の垣から屋外を覗《のぞ》いた。悪戯盛りの近所の小娘が、親でも泣かせそうな激しい眼付をして――そのくせ、飛んだ器量好しだが――横手の土塀の方へ隠れて行った。
「どうしてこの辺の娘は、こう荒いんだろう。男だか女だか解りゃしない」
こう高瀬は濡縁のところから、垣根越しに屋外に立っているお島に言った。
「大工さんの家の娘とはもう遊ばせないッて、先刻《さっき》誘いに来た時に断りましたら、今度は鞠ちゃんの方から出掛けて行きました……必《きっ》と喧嘩《けんか》でもしたんでしょう……石などを放って……女中でも子守でもこの辺の女は、そりゃ気が荒いんですよ……」
お島はどうすることも出来ないような調子で言って、夕方の空を眺めながら立っていた。暮色が迫って来た。
「鞠ちゃん、吾家《おうち》へお入り」と彼女はそこいらに出て遊んでいる子供を呼んだ。
「オバケ来るから、サ吾家にお出」と井戸の方から水を汲《く》んで来た下女も言葉を掛けて通った。
山家の娘らしく成って行く鞠子は、とは言え親達を泣かせるばかりでも無かった。夕飯後に、鞠子は人形を抱いて来て親達に見せた。そして、「お一つ、笑って御覧」などと言って、その人形をアヤして見せた。
「かァさん、かさん――やくらか、やくや――ほうちさ、やくやくう――おんこしゃこ――もこしゃこ――」
何処で教わるともなく、鞠子はこんなことを覚えて来て、眠る前に家中踊って歩いた。
五月の町裏らしい夜は次第に更《ふ》けて行った。お島の許《もと》へ手習に通って来る近所の娘達も、提灯《ちょうちん》をつけて帰って行った。四辺《あたり》には早く戸を閉めて寝る家も多い。沈まり返った屋外《そと》の方で、高瀬の家のものは誰の声とは一寸見当のつかない呼声を聞きつけた。
「高瀬君――」
「高瀬、居るか――」
声は垣根の外まで近づいて来た。
「ア」
と高瀬は聞耳
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