はこの人が来ると、百姓|画家《えかき》のミレエのことをよく持出した。そして泉から仏蘭西《フランス》の田舎の話を聞くのを楽みにした。高瀬は泉が持っている種々《さまざま》なミレエの評伝を借りて読み、時にはその一節を泉に訳して聞かせた。
「君は山田君が訳したトルストイの『コサックス』を読んだことがあるか。コウカサスの方へ入って行く露西亜《ロシア》の青年が写してあるネ。結局《つまり》、百姓は百姓、自分等は自分等というような主人公の嘆息であの本は終ってるが、吾儕《われわれ》にも矢張《やっぱり》ああいう気分のすることがあるよ。僕などはこれで随分百姓は好きな方だ。生徒の家へ行って泊まって見たり……人に話し掛けて見たり……まあいろんな機会を見つけて、音さんの家の蒟蒻《こんにゃく》の煮附まであそこの隠居やなんかと一諸に食って見た……どうしてもまだ百姓の心には入れないような気がする」
 こう高瀬は泉に話すこともあった。
 相変らず皆な黙って働いている塾の方から、高瀬は家へ帰ろうとして、午後の砂まじりの道を歩いた。停車場《ステーション》前へ出た。往来の両側には名物うんどん、牛肉、馬肉の旗、それから善光寺|詣《もうで》の講中のビラなどが若葉の頃の風に嬲《なぶ》られていた。ふと、その汽車の時間表と、ビイルや酒の広告と、食物をつくる煙などのゴチャゴチャした中に、高瀬は学士の笑顔を見つけた。
 学士は「ウン、高瀬君か」という顔付で、店頭《みせさき》の土間に居る稼《かせ》ぎ人らしい内儀《かみ》さんの側へ行った。
「お内儀さん、今日は何か有りますかネ」
 と尋ねて、一寸そこへ来て立った高瀬と一諸に汽車を待つ客の側に腰掛けた。
 極く服装《なりふり》に関わない学士も、その日はめずらしく瀟洒《しょうしゃ》なネクタイを古洋服の胸のあたりに見せていた。そして高瀬を相手に機嫌《きげん》よく話した。どうかすると学士の口からは軽い仏蘭西語などが流れて来た。
「そこはあまり端近です。まあ奥の方へ御通りなすって――」
 と亭主に言われて、学士は四辺《あたり》を見廻わした。表口へ来て馬を繋《つな》ぐ近在の百姓もあった。知らない旅客、荷を負《しょ》った商人《あきんど》、草鞋掛《わらじがけ》に紋附羽織を着た男などが此方《こちら》を覗《のぞ》き込んでは日のあたった往来を通り過ぎた。
「広岡先生が上田から御通いなすった時分から見やすと、御蔭で吾家《うち》でもいくらか広くいたしやした」
 こう内儀さんも働きながら言った。
 そのうちに学士の誂《あつら》えた銚子《ちょうし》がついて来た。建増した奥の部屋に小さなチャブ台を控えて、高瀬は学士とさしむかいに坐って見た。一口やるだけの物がそこへ並んだ。
 学士はこの家の子のことなどを親達に尋ねながら、手酌で始めた。
「高瀬君、まあ話して行って下さいナ。ここは心易い家でしてネ、それにお内儀さんがあの通り如才ないでしょう、つい前を通るとこんなことに成っちまうんです」
「私も小諸へ来ましてから、いくらかお酒が飲めるように成りました」
「でしょう。一体にこの辺の人は強酒《ごうしゅ》です。どうしても寒い国の故《せい》でしょうネ。これで塾では誰が強いか。正木さんも強いナ」
 高瀬は酒が欲しくないと言って唯話相手に成っていた。彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草を燻《ふか》し燻し学士の話に耳を傾けた。
「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしました伜《せがれ》の奴は。あれで弟と違って、性質は温順《すなお》な方なんですがネ。あれは小学校に居る時代から図画が得意でして、その方では何時でも甲を貰って来ましたよ。私が伜に、お前は何に成るつもりだッて聞きましたら、僕は大きく成ったら、泉先生のように成るんだなんて……あれで物に成りましょうか……」
 学士はチビリチビリやりながら、言葉を継いだ。
「妙なもので、家内はまた莫迦《ばか》に弟の方を可愛がるんです。弟の言うことなら何でも閲く。私がそれじゃ不可《いけない》と言うと、そこで何時でも言合でサ……家内が、父さんは繁の贔負《ひいき》ばかりしている、一体父さんは甘いから不可、だから皆な言うことを聞かなくなっちまうんだ、なんて……兄の方は弱いでしょう、つい私は弱い方の肩を持つ……」
 学士は頬と言わず額と言わず顔中手拭で拭き廻した。
「しかし、高瀬君、どうしてこんなに御懇意にするように成ったかと思うようですネ……貴方のところでも、今、お子さんはお二人か……実際、子供は骨が折れますよ。お二人位の時はまだそれでも宜《よ》う御座んす。私共を御覧なさい、あの通りウジャウジャ居るんですからネ……加《おまけ》に、大飯食《おおめしぐら》い
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