》った小楼の方へ高瀬を誘って行った。「これが湯の元です」というところを通った。先生は岩の間に造りつけてある黒い扉を開けて高瀬に見せた。そこには、隠れた地の底から涌《わ》いて来たままの鉱泉が淀《よど》んでいた。
「どれ、御案内しましょう。まだ畳もすっかり入れてありません」
先生は隠居さんから受取った鍵で錠前をガチャガチャ言わせて、誰も留守居のない、暗い家の中へ高瀬を案内した。閉めてあった雨戸を繰ると、対岸の崖の上にある村落、耕地、その下を奔《はし》り流れる千曲川が青畳の上から望まれた。
高瀬は欄《てすり》のところへ行って、川向うから伝わって来る幽《かす》かな鶏の声を聞いた。先生も一緒に立って眺めた。
「高瀬さん、この家は見覚えがありましょう――」
先生にそう言われると、高瀬にも覚えがある。高瀬は一度小諸を通って先生の住居を訪ねたことがある。形は変えられたが以前の書斎だ。
「どうせ、この建物はこうしてありますから、皆さんにお貸し申します……御|入用《いりよう》の時は、何時でも御使い下さい」
と言いながら、先生は新規に造り足した部屋を高瀬に見せ、更に楼階《はしごだん》の下の方までも連れて行って見せた。そこは食堂か物置部屋にでもしようというところだ。崖を崩して築き上げた暗い石垣がまだそのままに顕《あら》われていた。
二人は復た川の見える座敷へ戻った。先生は戸棚を開けて、煙草盆などを探した。
「しかし、先生も白く成りましたネ」
と高瀬が言出した。
先生が長い立派な髯《ひげ》を生《はや》したのもこの地方へ来て隠れてからだ。
年はとっても元気の好い先生の後に随《つ》いて、高瀬はやがてこの小楼を出、元来た谷間の道を町の方へ帰って行った。一雨ごとに山の上でも温暖《あたたか》く成って来た時で、いくらか湿った土には日があたっていた。
「桜井先生、あの高輪《たかなわ》の方にあった御宅はどう成さいました」
「高輪の家ですか。あれは君、実に馬鹿々々しい話サ……好い具合に人に胡麻化《ごまか》されて了いました……」
高瀬は先生の高輪時代をよく知っている。あの形勝の好い位置にあった、庭も広く果樹なども植えてあった、恐らく永住の目的で先生が建てた家を知っている。あの時代に居た先生の二度目の奥さんを知っている。あの頃は先生もまだ若々しく、時には奥さんに軽い洋装をさせ、一緒に猿《さる》
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