人は笑い出した。隠居さんの小屋のあたりで、湯場の方から上って来る正木大尉の奥さんにも逢った。大尉の奥さんは湯上りの好い顔色で、子供を連れて、丁寧に二人に挨拶《あいさつ》して通った。
浴場には桜井先生も広岡学士も来ていた。先生は身体を拭いて上りかけたところで、学士だけ鉱泉の中に心地よさそうに入っていた。硝子《ガラス》戸の外には葡萄《ぶどう》の蔓《つる》も延び延びとして、林檎《りんご》の植えられた畠なども見える。
「子安君はナカナカ好い身体ですネ――」
と学士に言われて、子安は随分苦学もして来たらしい締った毛脛《けずね》を撫《な》でた。
「どうです、我輩の指は」
とその時、学士は左の手をひろげて、半分しかない薬指を出して見せた。
「ホウ」と子安は眼を円くした。
「一寸気が着かないでしょう。これにはそもそも歴史がある――ベエスの記念でサ」
学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨を挫《くじ》かれた指で熱球を受け損じた時の真似《まね》までして見せた。
三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆なを待受顔に窓に近い庭石に水をそそいでいた。先生は石垣の上に試みたアカシヤの挿木《さしき》を高瀬に指して見せた。門の内には先生の好きな花も植えられた。
別荘の入口には楼の名を彫った額も掛った。明るい深い緑葉の反射は千曲川の見える座敷に満ちて、そこに集った湯上りの連中の顔にまで映った。一年に二度ずつ黄色くなる欄《てすり》の外の眺めは緑に調和して画のように見えた。先生は茶を入れて皆なを款待《もてな》しながら、青田の時分に聞える非常に沢山な蛙の声、夕方に見える対岸の村落の灯の色などを語り聞かせた。
間もなく三人は先生一人をこの隠れ家に残して置いて、町の方へ帰って行った。[#「。」は底本では「、」。227−17]学士がユックリユックリ歩くので他の二人は時々足を停めて待合わせては復たサッサと歩いた。
「しかし、女でも何でも働くところですネ」と子安は別れ際《ぎわ》に高瀬に言った。
高瀬も佇立《たちどま》って、「畢竟《つまり》、よく働くから、それでこう女の気象が勇健《つよ》いんでしょう」
「そうです。働くことはよく働きますナ……それに非常な質素なところだ……ですけれど、高瀬さん、チアムネスというものは全くこの辺の娘に欠けてますネ」
子安は心
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