起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路|側《わき》の柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。
「どうも汽車の音が喧《やかま》しくて仕様が有りません。授業中にあいつをやられようものなら、硝子《ガラス》へ響いて、稽古も出来ない位です」
 大尉は一寸高瀬の側へ来て、言って、一緒に停車場の方へ向いた窓から見下した。大急ぎで駈出《かけだ》して行く広岡理学士の姿が見えた。学士は風呂敷包から古い杖まで忘れずに持って、上田行の汽車に乗り後《おく》れまいとした。
 これと擦違《すれちが》いに越後《えちご》の方からやって来た上り汽車がやがて汽笛の音を残して、東京を指して行って了った頃は、高瀬も塾の庭を帰って行った。周囲《あたり》にはあたかも船が出た後の港の静かさが有った。塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに高瀬は独《ひと》り桑畠の間を帰りながら、都会から遁《のが》れて来た自分の身を考えた。彼が近い身の辺《ほとり》にあった見せかけの生活から――甲斐《かい》も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁《のが》れて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか。そのために、彼は他にもあった教師の口を断り、すこし土でも掘って見ようと思って、わざわざこの寂しい田舎へ入って来た。

「高瀬さん、一体|貴方《あなた》はお幾つなんですか――」
 桜井先生の奥さんは庭づたいに隣の家の方から廻って来た高瀬に尋ねた。奥さんは縁側のところに出て、子供に鶏を見せていた。
 高瀬は庭に立ちながら、「二十八です」と答えた。
「まだお若いんですねえ」
「そう言えば、奥さんはお幾つです。女の方の年齢《とし》というものは、よく分らないものですネ」
「私ですか――貴方《あなた》より二つ上――」
 奥さんは聞かなくても可いことを鑿《ほ》って聞いたという顔付で、やや皮肉に笑って、復た子供と一緒に鶏の方を見た。淡黄な色の雛《ひな》は幾羽となく母鶏《おやどり》の羽翅《はがい》に隠れた。
 先生が庭を廻って来た。町の方に見つけた借家へ案内しよう、という先生に随いて、高瀬はやがてこの屋敷を出た。
 城門前の石碑のあるあたりから、鉄道の線路を越え、二人は砂まじりの窪《くぼ》い道を歩いて行った。並んだ石垣と桑畠との見える小高い耕地の上の方には大手門の残ったのが裏側から望
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