ふくらんだ蕾《つぼみ》を持った、紅味のある枝へは、手が届く。表門の柵《さく》のところはアカシヤが植えてあって、その辺には小使の音吉が腰を曲《かが》めながら、庭を掃《は》いていた。一里も二里もあるところから通うという近在の生徒などは草鞋穿《わらじばき》でやって来た。
まだ時が早くて、高瀬は先生の室を見る暇があった。教室の上にある二階の角《すみ》が先生のデスクや洋風の書架の置並べてあるところだ。亜米利加《アメリカ》に居た頃の楽しい時代でも思出したように、先生はその書架を背《うしろ》にして自分でも腰掛け、高瀬にも腰掛けさせた。
「好い書斎ですネ」
と高瀬は言って見て、窓の方へ行った。蓼科《たでしな》の山つづきから遠い南|佐久《さく》の奥の高原地がそこから望まれた。近くには士族地の一部の草屋根が見え、ところどころに柳の梢の薄く青みがかったのもある。遅い春が漸《ようや》く山の上へ近づいて来た。
「高瀬さん、これを一つ君に呈しましょう」
と言って先生が書架から取出したのは、古い皮表紙の小形の洋書だ。先生は鼻眼鏡を隆《たか》い鼻のところに宛行《あてが》って、過ぎ去った自分の生活の香気《におい》を嗅《か》ぐようにその古い洋書を繰りひろげて見て、それから高瀬にくれた。
正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉は隅《すみ》のところに大きな机を控えていた。高瀬は、大尉とは既に近づきに成っていた。
「正木先生は大分漢書を集めて被入《いら》っしゃいます――法帖《ほうじょう》の好いのなども沢山持って被入《いら》っしゃる」と先生は高瀬に言った。「何かまた貴方《あなた》も借りて御覧なすったら可いでしょう」
「ええ、まあボツボツ集めてます……なんにも子供に遺《のこ》して置く物もありませんから、せめて書籍《ほん》でも遺そうと思いまして……」
大尉は黒い袴《はかま》の中へ両手を差入れながら笑った。
その日、高瀬は始めて広岡理学士に紹介された。上田町から汽車で通って来るという。高瀬から見れば親と子ほども年の違った学者だ。
「高瀬さんは三年という御約束で、私共の塾へ来て下さいました」
先生は今度雇い入れた新教員のことを学士に話した。
初めての授業を終って、復た高瀬がこの二階へ引返して来る頃は、丁度二番の下り汽車が東京の方から着いた。盛んな蒸汽の音が塾の直ぐ前で
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