解剖されるという約束で来ているものもあった。晩に来て朝に帰る親達も多かった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――ん――」
この叫声は私達の耳について了った。どうかすると、それが歌うように、低い柔な調子に成ることもあった。
友達や親戚のものはかわるがわる見舞に来てくれた。午後に私は皆川医学士に呼ばれて、大きなテエブルの置いてある部屋へ行った。他に人も居なかった。学士は私と相対《さしむかい》に腰掛けて、私に煙草をすすめ自分でもそれを燻《ふか》しながら、医局のものは皆な私の子供のことを気の毒に思うと言って、そのことは病院の日誌にも書き、又、出来得る限りの力を尽しつつあることなぞを話してくれた。その時、学士は独逸《ドイツ》語の医書を私の前に披《ひら》いて、小児の病理に関する一節を私に訳して聞かせた。お房の苦んでいる熱は、腸から来たものではなくて、脳膜炎であること――七歳の今日まで、お房はお房の生き得るかぎりを生きたものであること――こういう宣告が懇切な学士の口唇から出た。私は厳粛な、切ない思に打たれた。そして、あの子供を救うべきすべての望は絶えたことを知った。室へ戻って見るとお房は
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