前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子《こうし》にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマラない」
 こう家内は口癖のように嘆息した。
 私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚《さら》われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命《いのち》は根から動揺《ゆすぶ》られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
 と私は言って見た。
 麻疹《はしか》後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着《おちつ》き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具《おもちゃ》の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居
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