毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々にお菊は変って行った。それから二時間しかこの児は生きていなかった。
大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋《とりすが》って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
お菊は矢張《やはり》長光寺に葬った。親戚や知人《しるべ》を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
菊 子 の 墓
繁 子 の 墓
愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。
お菊が生
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