は漸く学士の方へ小さな手を出した。
少壮ではあるが、篤実な、そしていかにも沈着いた学士の態度は、私達に信頼する心を起させた。学士は子供の腸を洗ってやりたいと言ったが、不便な郊外のことで、近くに洗滌器《せんじょうき》を貸すところも無かった。家内は二三の医者の家を走り廻って、空しく帰って来た。
「一つ注射して見ましょう」
こう学士が、病児の顔を眺めながら、言出した。
家内はお菊の胸の辺《あたり》を展《ひろ》げた。白い、柔い、そして子供らしい肌膚《はだえ》が私達の眼にあった。学士は洋服の筒袖を捲《まく》し上げて、決心したような態度で、注肘の針に薬を満たした。
「痛いッ」
お菊は泣き叫んだ。鋭い注射の針は二度も三度も射された。
間もなく私はこの病児を抱いて、車で大学病院へ向った。学士も車で一緒に行ってくれた。途次《みちみち》小児科医の家の前を通る度に、学士は車を停めて、更に注射を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時に、この児は最早駄目だ、と私は思った。
病名は消化不良ということであった。この急激な身体の変化は多分夏蜜柑の中
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