盥《かなだらい》の水までも飲もうとした。私は空の白むのを待兼ねて、病児を家内に託して置いて、車で皆川医学士を迎えに行った。まだ夜は明けなかった。町々の疲れた燈火《ともしび》は暗く赤く私の眼に映った。
「菊ちゃん、御医者様が入来《いら》ッしゃるよ」と私が子供の枕元へ帰って来て呼んだ時は、お菊もまだ気がタシカだった。お繁の時のことも有るから、医学士も気の毒がって早速来てくれた。
家内は蔭の方で、
「貴方がたが入来《いら》ッしゃるちょっと前に、房ちゃんが肩掛を冠《かぶ》って踊って見せたんですよ。その時菊ちゃんも可笑《おか》しがって笑って――『可笑しな房ちゃん!』なんて。まだそんなに正気だったんですよ……。『お水! お水!』ッて困りました……。『御医者様が入来《いら》ッしゃるとお水を下さる』そんなこと言って欺《だま》しましたら、漸《ようや》くそれで温順《おとな》しく成ったところなんですよ……」
お菊は大きな眼を開いて医学士の方を見たが、やがて泣出しそうに成った。
「菊ちゃん、御医者様に診て頂くんですよ……ね、お水を頂くんでしょう……そうすると直に癒《なお》りますよ」
と母に言われて、お菊
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