ゴソゴソ寝に来る音を聞くように成った。
私の仕事が世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日、家内が種夫を負《おぶ》って、薬を貰いに出掛けようとすると、それをお菊が、見送ると言いながら、植木屋の横手にある小径を通って、畑の方までも随いて行った。
「彼処《あそこ》まで送って上げましょう」
とお菊は向《むこう》に光る新しい家屋を指して見せて、やがて母と一緒に畑の尽きたところへ出た。新開地らしい道路がそこにあった。
「菊ちゃんここから独りで帰れるの?」
と母が立留って言った。
お菊は独りで帰れると言って、桐の若木がところどころに立っている畑の間を帰りかけた。
「母さん」
こうお菊は振向いて呼んだ。そして母と顔を見合せて微笑《ほほえ》んだ。母は乳呑児を負《おぶ》ったまま佇立《たたず》んでいた。お菊は復た麦だの薩摩芋《さつまいも》だのの作ってある平坦《たいら》な耕地の間を帰ったが、二度も三度も振向いて見た。
「母さん」
この呼声が通じなくなった頃、お菊はサッサと家の方へ戻って来た。翌日も復たお菊が同じように後を追って行くので、家内も可愛そうに
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