ざん泣いて来たんですよ」こう家内はそこへ立留って言った。「帰りに八百屋へ寄って、買物をしていましたら、急にそこいらが見えなく成って来て……房ちゃんや菊ちゃんを連れていなかろうものなら、真実《ほんと》に私はどうしようかと……」
「最早《もう》見えないのかい」
「街燈《ガス》の火ばかし見えるんですよ……あとは真暗なんです」
「さあ、房ちゃんも、菊ちゃんも、お家へお入り」
 暮色が這うようにやって来た。私達は子供を連れて急いで門の内へ入った。
 こういう私の家の光景《ありさま》は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪《きりさげがみ》にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達《せんだつ》とかで、植木屋の老爺《じい》さんの弟の連合《つれあい》にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷《きとう》を勧めて帰って行った。
「御祈祷して御貰い成すったら奈何《いかが》です――必《きっ》と方角でも悪かったん
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