えなくなりました……」
と復た家内が言って、洋燈《ランプ》の灯に自分の手を照らして見ていた。
「オイ、オイ、馬鹿なことを言っちゃ困るぜ」私は真実《ほんとう》にもしなかった。
「いえ、串戯《じょうだん》じゃ有りませんよ、真実に見えないんですよ……洋燈の側なら何でも能く分りますが、すこし離れると最早|何物《なんに》も分りません」
「俺の顔は?」
私は笑わずにいられなかった。
その時、家内は手探り手探り暗い押入の方へ歩いて行った。しばらく私もそこに立って、家内の様子を眺めていた。
「早く医者に診て貰うサ」
と私は励ますように言って見た。
翌日になると、明るい光線の中では別に何ともないと言って、家内は駿河台《するがだい》の眼医者のところまで診て貰いに行った。滋養物を取らなければ不可《いけない》――働き過ぎては不可――眼を休ませるようにしなければ不可――種々《いろいろ》に言われて来た。
「一つは粗食した結果だ」
この考えが私の胸に浮んだ。私は信州にある友達の厚意を思って、成るべくこの仕事をする間は、質素に質素に、と心掛けたが、それを通り越して苛酷であった、とはその時まで自分でも気が着
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