夕餐《ゆうはん》の煙は古い屋根や新しい板屋根から立ち登った。鍬を肩に掛けた農夫の群は、丁度一日の労働を終って、私達の側を通り過ぎた。それを眺めて、私は額に汗する人々の生活を思いやった。復た私は長い根気仕事を続ける気に成った。
 熱いうちにも寂しい感じのする百日紅《さるすべり》の花が咲く頃と成った。やがて、亡くなった子供の新盆《あらぼん》、小諸の方ではまた祗園《ぎおん》の祭の来る時節である。冷《すず》しい草屋根の下に住んだ時とは違って、板屋根は日に近い。壁は乾くと同時に白く黴《かび》が来た。引越以来の混雑《とりこみ》にまぎれて、解物《ほどきもの》も、洗濯物も皆な後《おく》れて了ったと言って、家内は縁側の外へ張物板を持出したが、狭い廂《ひさ》の下に日蔭というものが無かった。
 庭の隅《すみ》には枝の細長い木犀《もくせい》の樹があった。まばらな蔭は僅かにそこに落ちていた。軒からその枝へ簾《すだれ》を渡して、熱い土のいきれの中で、家内は張物をしたり、洗濯したりした。
「あれ黒がいけません」
 こう言いながら、お菊は穢《きたな》い宿無し犬に追われて来た。
「菊ちゃん、早く逃げていらッしゃい……
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