俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の色まで――すべて、そういうものの記憶を私は自分と一緒に山から運んで行こうとした。
 汽車が上州の平野へ下りた頃、私は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲の影に成ってよく見えなかった。
 高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処がなかった。お房とお菊はかわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳をあてがわれても、揺《ゆす》られても、どうしても泣止まなかった。何故こんなに泣くんだろう、と家内はもう持余して了った。仕方なしに、お繁を負《おぶ》って、窓の側で起ったり坐ったりした。
 四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければならないと言うので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷《ひど》く旅に萎《しお》れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま気抜けのしたような眼付をしていた。
 時々家内は立止って、郊外のありさまを眺めな
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