、そこへお繁を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、この末の児はまだ匍《は》いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。どうやら首のすわりもシッカリして来た。家《うち》の内《なか》での愛嬌《あいきょう》者に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
こう私が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。家内は一人ずつ寝巻に着|更《か》えさせた。下女はまた、人形でも抱くようにして、柔軟《やわらか》なお繁の頬《ほお》へ自分の紅い頬を押宛てていた。
やがて三人の子供は枕を並べて眠った。急に家の内はシンカンとして来た。家内なぞは、子供の眠っている間が僅かに極楽だと言い言いしている。
「一号、二号、三号……」
この自分から言出した串談《じょうだん》には、私は笑えなくなった。三人の子供ですらこの通り私の家では持余している。今からこんなに生れて、このうえ出来たらどうしようと思った。私の母は八人子供を産んでいる。家内の方にはまた兄妹《きょうだい》が十人あった。その総領の姉は今五人子持で、次の姉は六人子持だ。何方《どちら》を向いても、子供の多い系統から来ている。
翌日、私は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。その日から私の家ではそろそろ引越の仕度に取掛った。よく大久保の噂《うわさ》が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程《どれほど》工事が進んだろうとか、毎日言い合った。私達の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行くような気がした。
二週間ばかり経ったところで、大久保の植木屋から手紙を受取った。見ると、月の末まで待たなければならなかった。こうなると一度|纏《まと》めた道具のうちを復た解《ほど》く必要がある位で、ある荷物は会社に依頼して先へ送り出した。私は本町の角にある茶店《ちゃてん》から、大きな茶箱を二つ求めて来て、書籍のたぐいはそれに詰めた。箪笥《たんす》でも、本箱でも、空虚《から》にして送らなければ壊《こわ》れて了うと言われた。この混雑の中で、幾度《いくたび》か町の人は私を引留めに来た。「夜逃げにでも逃げようかしらん」どうかすると私は家のものに向って、謔語《じょうだん》半分にこんなことを言うこともあった。あまりに長く世話に成り過ぎた、と私は思った。いざこの土地を見捨てて行くとなると、私達の生涯は深く根が生えたように成っていた。とはいえ町の人は私の願を容《い》れてくれた。そして餞別《せんべつ》を集めたり、いろいろ世話をしたりしてくれた。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言い合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。いよいよ出発の日が近づいた。三人の子供には何を着せて行こう、とこう家内はいろいろに気を揉んだ。「房《ふう》ちゃん、いらッしゃい、衣服《おべべ》を着て見ましょう――温順《おとな》しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」と家内が言って、写真を映した時に一度着せたヨソイキの着物を取出した。それは袖口《そでぐち》を括《くく》って、お房の好きなリボンで結んである。お菊のためには黄八丈の着物を択ぶことにした。
「菊《きい》ちゃんの方は色が白いから、何を着ても似合う」
こう皆なが言い合った。
五月の朔日《ついたち》は幸に天気も好く、旅をするものに取って何よりの日和《ひより》だった。子供は近所の娘達に連れられて、先ず停車場を指《さ》して出掛けた。学校の小使が別れに来たから、この人には使用《つか》っていた鍬を置いて行くことにした。私は毎日通い慣れた道を相生町の方へとって、道普請の為に高く土を盛上げた停車場前まで行くと、そこで日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのに出逢った。そこまで追って来て、餞別のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなどもあった。同僚に親にしてもいいような年配の理学士があったが、この人は花の束にしたのを持って来て、私達の乗った汽車の窓へ入れてくれた。その日は牧野君も洋服姿でやって来て、それとなく見送ってくれた。
「困る。困る」
こう言って、お菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、私へしがみ付いた。
やがて、ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢《こずえ》、石垣の多い桑畑などは汽車の窓から消えた。小諸は最早見えなかった。
この旅には、私は山から種々ななものを運ぼうとする人であった。信州で生れた三人の子供は言うまでもなく、世帯の道具、衣類、それから毎日の暮し方まで、私は地方の生活をソックリ都会の方へ移して持って行こうとした。楊《やなぎ》、楓《かえで》、漆《うるし》、樺《かば》、楢《なら》、蘆《あし》などの生い茂る千曲川《ちくまがわ》一帯の沿岸の風
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