俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の色まで――すべて、そういうものの記憶を私は自分と一緒に山から運んで行こうとした。
 汽車が上州の平野へ下りた頃、私は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲の影に成ってよく見えなかった。
 高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処がなかった。お房とお菊はかわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳をあてがわれても、揺《ゆす》られても、どうしても泣止まなかった。何故こんなに泣くんだろう、と家内はもう持余して了った。仕方なしに、お繁を負《おぶ》って、窓の側で起ったり坐ったりした。
 四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければならないと言うので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷《ひど》く旅に萎《しお》れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま気抜けのしたような眼付をしていた。
 時々家内は立止って、郊外のありさまを眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
 と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
 私達親子のものが移ろうとした新しい巣は、着いて見ると、漸《ようやく》く工事を終ったばかりで、まだ大工が一人二人入って、そこここを補《つくろ》っているところであった。植木屋の亭主は早速私を迎えて、沢山盆栽などの置並べてある庭の内で、思いの外壁の乾きが遅かったことなぞを言った。庭に出て水を汲んでいた娘は、家内や子供に会釈しながら、盆栽|棚《だな》の間を通り過ぎた。めずらしそうに私達の様子を眺める人もあった。この広い、掃除の届いた庭の内には、植木屋の母屋《もや》をはじめ、まだ他に借屋建《しゃくやだて》の家が二軒もあって、それが私達の住まおうとする家と、樹木を隔てて相対していた。とにかく、私は植木屋の住居《すまい》を一間だけ借りて、そこで二三日の間待つことにした。
「房ちゃんも、菊ちゃんも、花を採るんじゃないよ――叔父さんに叱られるよ」
 と私は二人の子供に言い聞かせた。
 日の暮れる頃、会社から来た一台の荷馬車が植木屋の門前で停った。私達は先に送った荷物と一緒に大久保へ着いたことに成った。この混雑の中で、お繁は肩掛に包まれたまま、取散らした手荷物などの中に寝かされていた。稀《たま》にアヤされても、笑いもしなかった。その晩は、遅くなって、一同夕飯にありついた。
 翌日は、荷物の取片付に掛るやら、尋ねて来る客があるやらで、ゴタゴタした。お繁は疲れて眠り勝であったが、どうかすると力のない眼付をしながら、小さな胸を突出すような真似《まね》をして見せる。この児はまだ「うま、うま」位しか言えない。抱かれたくて、あんな真似をするのだろうと、私達は解釈した。で、成るべく顔を見せないようにした。温順《おとな》しく寝ているのを好い事にして、いくらか熱のあったのも気に留めなかった。思うように子供を看《み》ることも出来なかったのである。
 大久保へ来て三日目に、私は先ず新しい住居《すまい》へ移って、四日目には家のものを移らせた。新築した家屋のにおいは、不健康な壁の湿気に混って、何となく気を沈着《おちつ》かせなかった。壁はまだ乾かず、戸棚へは物も入れずにある。唐紙は取除《とりはず》したまま。種々なことを山の上から想像して来た家内には、この住居はあまりに狭かった。
「家賃を考えて御覧な」
 と私は笑った。
 歩調を揃《そろ》えた靴の音が起った。カアキイ色の服を着けた新兵はゾロゾロ窓の側を通った。金目垣《かなめがき》一つ隔てた外は直ぐ往来で、暗い土塵《つちぼこり》が家の内までも入って来た。
 お房は物に臆しない方の娘で、誰とでも遊んだから、この住居へ移った頃には最早《もう》近所の娘の中に交っていた。そして、小諸|訛《なまり》の手毬歌《てまりうた》なぞを歌って聞かせた。短い着物に細帯ではおかしいほど背丈の延びた学校通いの姉さん達を始め、五つ六つ位の年頃の娘が、夕方に成ると、多勢家の周囲《まわり》へ集った。お菊はなかなか用心深くて、庭の樹の下なぞに独《ひと》りで遊んでいる方で、容易に他の子供と馴染《なじ》もうともしなかった。
「房ちゃん、大手のお湯《ゆう》へ行きましょう」
 こうお菊は母に連れられて入浴に出掛ける時に言った。この娘は小諸の湯屋へ行くつもりでいた。
 漸く家の内がすこし片付いて、これから仕事も出来ると思う頃、末の児は意外な発熱の状態《ありさま》に陥入った。新開地のことで、近くには小児科の医者も無かった。村医者があると聞いて、来て診《み》て貰《もら》ったが、子供を扱いつけたこ
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