とが無いと見えて、とかくハッキリしたことも言ってくれなかった。この医者を信ずる信じないで、家では論が起った。生憎《あいにく》また母の乳は薄くなった。私は町へ出て、コンデンス・ミルクを売る店を探したが、それすらも見当らなかった。その晩は牛込に住む友達の家に会があった。私は途中でミルクを買いしなこの友達にも逢って、小児科医の心あたりを聞いて見る積りであった。村医者は二度も三度も診に来た。最早駄目かしらん、こんな気が起って来た。
「最後の晩餐《ばんさん》!」
と、不図《ふと》、私は坂の途中で鷲《わし》印のミルク罐《かん》を買いながら思った。牛込の家には、種々な知人が集っていた。そこで戦地から帰って来た友達にも逢った。君は、私がまだ信州に居た頃、従軍記者として出掛けたのであった。
「電話で一つ聞き合わせてあげましょう。皆川という医学士が大学の方に居ますが、この人は小児科専門ですから」
こう主人は気の毒がって言ってくれた。
丁度戸山には赤十字社の仮病院が設けてある時であった。皆川医学士が、臨時の手伝いとして通っていると言って、戸山からわざわざ私の家へ見舞に寄ってくれた頃は、お繁は最早《もう》床の上に冷たく成っていた。
東京の郊外へ着く早々、私達は林の中にでも住むような便りなさを感じた。同時に、小諸でよく子供の面倒を見てくれた近所のシッカリした「叔母さん」達を恋しく思った。あのお繁が胸を突出すような真似をして見せたのは、漸く私達にその意味が解った。口のきけない子供は、死んでから苦痛を訴え始めた。
今更仕方がなかった。そして口説《くど》いてなぞいる場合では無い、と私は思った。幼児《おさなご》のことだから、埋葬の準備も成るべく省くことにして、医者の診断書を貰うことだの、警察や村役場へ届けることだの、近くにある寺の墓地を買うことだの、大抵のことは自分で仕末した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせて、その中へお繁の亡骸《なきがら》を納めた。
「房《ふう》ちゃん、来て御覧なさい――繁ちゃんは死んじゃったんですよ」
こう家内が言った。
「菊《きい》ちゃん、いらッしゃい」
とお房は妹を手招きして呼んで、やがて棺の中に眠るようなお繁の死顔を覗《のぞ》きに行った。急に二人の子供は噴飯《ふきだ》した。
「死んじゃったのよ、死んじゃったのよ」
とお菊は訳も解らずに母の口真似をして、棺の周囲《まわり》を笑いながら踊って歩いた。
「馬鹿だねえ……御覧なさいな、繁ちゃんは最早ノノサンに成ったんじゃ有りませんか……」
と復た母に言われて、お房は不思議そうに、泣|腫《は》らしている母の顔を覗き込んだ。丁度そこへ家内の妹も学校の方からやって来たが、この有様を見ると、直に泣出した。終《しまい》にはお房も悲しく成ったと見えて、母や叔母と一緒に成って泣いた。
蝋燭《ろうそく》の火が赤く点《とぼ》った。
「兎の巾着でも入れてやりナ」
と私が言ったので、家内や妹は棺の周囲へ集って、毛糸の巾着の外に、帽子、玩具《おもちゃ》、それから五月の花のたぐいで、死んだ子供の骸《から》を飾った。
墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向《むかい》の農家の人などは、提灯《ちょうちん》を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。
こうして私の家には小さな新しい位牌《いはい》が一つ出来た。そのかわり、お繁の死は、私達の生活の重荷をいくらか軽くさせた形であった。まだお房も居るし、お菊も居る――二人もあれば、子供は沢山だ、と私は思った。
どうかすると私は串戯《じょうだん》半分に家のものに向って、
「お繁が死んでくれて、大《おおい》に難有《ありがた》かった」
こんなことを言うこともあった。私は唯自分の仕事を完成することにのみ心を砕いていた。
「子供なぞはどうでも可い」
多忙《いそが》しい時には、こんな気も起った。何を犠牲にしても、私は行けるところまで行って見ようと考えたのである。
郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息《いき》を吐《つ》きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦《たいら》な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁《にわづくり》のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った。
「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採
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