私達は耳を澄ましながら、子供の呼吸を聞いて見た。
 急に皆川医学士が看護婦を随えて入って来た。学士は洋服の隠袖《かくし》から反射機を取出して、それでお房の目を照らして見た。何を見るともなしにその目はグルグル廻って、そして血走った苦痛の色を帯びていた。学士は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、やがて出て行って了った。
 夢のように窓が白んだ。猛烈な呼吸と呻声《うめき》とが私達の耳を打った。附添の女は走って氷を探しに行った。お房の気息《いき》は引いて行く「生」の潮《うしお》のように聞えた。最早《もう》声らしい声も出なかったから、せめて最後に聞くかと思えば、呻声《うめき》でも私達には嬉しかった。死は一刻々々に迫った。私達の眼前《めのまえ》にあったものは、半ば閉じた眼――尖った鼻――力のない口――蒼ざめて石のように冷くなった頬――呻声も呼吸も終《しまい》に聞えなかった。
 数時間経って、お房が入院中世話に成った礼を述べ、又、別れを告げようと思って、私は医局へ行った。その時、大きなテエブルを取囲《とりま》いた学士達から手厚い弔辞《くやみ》を受けた。濃情な皆川医学士は、お房のために和歌を一首作ったと言って、壁に懸けてある黒板の方を指して見せた。猶《なお》、埋葬の日を知らせよなどと言ってくれた。
 看護婦や附添の女にも別れて、私はショウルに包んだお房の死体を抱きながら、車に乗った。他のものも車で後《あと》になり前《さき》になりして出掛けた。本郷から大久保まで乗る長い道の間、私達は皆な疲労《つかれ》が出て、車の上で居眠を仕続けて行った。
 お菊と違って、姉の方は友達が多かった。私達が大久保へ入った頃は、到る処に咲いている百日紅《さるすべり》のかげなぞで、お房と同年位の短い着物を着た、よく一緒に遊んだ娘達にも逢った。ガッカリして私達は自分の家に帰った。
「貴方は男だから可《よ》う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」
 弔いに来る人も、来る人も、皆な同じようなことを言ってくれた。留守を頼んで置いた甥《おい》はまた私の顔を眺めて、
「私も家のやつに子供でも有ったら、よくそんなことを考えますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ると、無い方が可いかとも思いますね」
 と言っていた。
 こうして復た私の家では葬式を出すことに成った。お房のためには、長光寺の墓地の都合で、二人の妹と僅《わず》か離れたところを択《えら》んだ。子供等の墓は間《あい》を置いて三つ並んだ。境内は樹木も多く、娘達のことを思出しに行くに好いような場処であった。葬式の後、家内は姪を連れてそこへ通うのをせめてもの心やりとした。
 子供の亡くなったことに就いて、私は方々から手紙を貰った。殊に同じ経験があると言って、長く長く書いて寄《よこ》してくれた雑誌記者があった。君とは久しく往来も絶えて了ったが、その手紙を読んで、何故に君が今の住居《すまい》の不便をも忍ぶか、ということを知った。君は子供の墓地に近く住むことを唯一の慰藉《なぐさめ》としている。
 不思議にも、私の足は娘達の墓の方へ向かなく成った。お繁の亡くなった頃は、私もよく行き行きして、墓畔《ぼはん》の詩趣をさえ見つけたものだが、一人死に、二人死にするうちに、妙に私は墓参りが苦しく可懼《おそろ》しく成って来た。
「父さんは薄情だ――子供の墓へお参りもしないで」
 よく家のものはそれを言った。
 私も行く気が無いではなかった。幾度《いくたび》か長光寺の傍《そば》まで行きかけては見るが、何時でも止して戻って来た。何となく私は眩暈《めまい》して、そこへ倒れそうな気がしてならなかった。
 寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体《からだ》は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。
 家内は姪をつかまえて、
「房ちゃんや菊ちゃんが二人とも達者で居る時分には、よく繁ちゃんのお墓へ連れてって桑の実を摘《と》ってやりましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと、繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あのお墓の後方《うしろ》にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘《と》って下さいッて言っちゃあ……」
 種夫に乳を呑ませながら、こんな話を私の傍でする。姪はまた姪で、お房やお菊のよく歌った「紫におう董《すみれ》の花よ」という唱歌を歌い出す。
「オイ、止してくれ、止してくれ」
 こう言って、私は子供の話が出ると、他の話にして了った。
 山から持って来た私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨澹《さんたん》たる日を送った。ある朝、私は新聞を懐《ふところ》にして、界隈《かいわい》へ散歩に出掛けた。丁度日曜附録の附く日
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