て来た。看護婦だの、身内のものだのが取囲《とりま》いている寝台の側に立って、皆川医学士はその学生らしい人にお房の病状を説明して聞かせた。そして、子供の足を撫《な》でたり、腹部を指して見せたりした。学生らしい人は又、こういう時に経験して置こうという風で、学士の説明に耳を傾けていた。学士達の中には、まだ年も若く、ここへ来たばかりで、冷静に成ろう成ろうと勉めているような人もあった。
病院へ来て二週間目にあたるという晩には、お房は最早《もう》耳もよく聴えなかった。唯、物を言いたそうにする口――下唇を突出すようにして、息づかいをする口だけ残った。過度の疲労と、睡眠の不足とで、私達は半分眠りながら看護した。夜の二時半頃、私は交代で起きて、附添の女や家内を休ませたが、二人は横に成ったかと思うと直に死んだように成って了った。どうかすると、私も病人の寝台に身体を持たせ掛けたまま、まるで無感覚の状態《ありさま》に居ることもあった。
翌朝《よくあさ》に成って、附添の女は私達の為に賄《まかない》の膳を運んで来た。
「オイ、その膳をここへ持って来てくれ」と私は家内に言付けた。
「子供が死んで、親ばかり残るんでは、なんだか勿体《もったい》ない――今朝はここで食おう」
膳には、麩《ふ》の露、香の物などが付いた。私達は窓に近い板敷の上に直《じか》に坐って、そこで朝飯の膳に就いた。
回診は十時頃にあった。医学士達は看護婦を連れて、多勢で病人の様子を見に来た。終焉《おわり》も遠くはあるまいとのことであった。午後までも保《も》つまいと言われた。前の日まで、お房が顔の半面は痙攣《けいれん》の為に引釣《ひきつ》ったように成っていたが、それも元のままに復《かえ》り、口元も平素《ふだん》の通りに成り、黒い髪は耳のあたりを掩《おお》うていた。湯に浸したガアゼで、家内が顔を拭ってやると、急に血色が頬へ上って、黄ばんだうちにも紅味を帯びた。痩《や》せ衰えたお房の容貌《かたち》は眠るようで子供らしかった。
よく覚えて置こうと思って、私は子供の傍へ寄った。家内はお房の髪を湿して、それを櫛《くし》でといてやった。それから、山を下りる時に着せて連れて来たお房の好きな袷《あわせ》に着更えさせた。周囲《まわり》には「姉さん達」も集って来ていた。死は次第にお房の身《からだ》に上るように見えた。
こうなると、用意しなければならないことも多かったので、それから夕方まで私は子供の傍に居なかった。やがて最早《もう》息を引取ったろうか、そんなことを思いながら、病院の方へ急いで見ると、まだお房は静かに眠る状態《さま》である。小鳥も塒《ねぐら》に帰る頃で、幾羽となく椎の樹の方へ飛んで来た。窓のところから眺めると、白い服を着た看護婦だの、癒りかけた患者だのが、彼方此方《あちこち》と庭の内を散歩している。学士達は消毒衣のままで、緑蔭にテニスするさまも見える。ここへお房が入院したばかりの時は、よく私も勧められてテニスの仲間入をしたものだが、最早ラッケットを握る気にも成れなかった。
お房の眼の上には、眸《ひとみ》が疲れると言って、硼酸《ほうさん》に浸した白い布が覆《かぶ》せてあった。時々痙攣の起る度に、呼吸は烈しく、胸は波うつように成った。頭も震えた。もはや終焉《おわり》か、と思って一同子供の周囲《まわり》に集って見ると、復たいくらか収って、眠った。
夕日は室《へや》の内《なか》に満ちた。庭に出て遊ぶ人も何時の間にか散って了った。不忍《しのばず》の池《いけ》の方ではちらちら灯《あかり》が点《つ》く。私達は、半分死んでいる子供の傍で、この静かな夕方を送った。
お房は眠りつづけた。看護の人々も疲れて横に成るものが多かった。夜の九時頃には、私は独《ひと》り電燈の下に椅子に腰掛けてお房の烈しい呼吸の音を聞いていた。堪《た》えがたき疲労、心痛、悲哀などの混《まざ》り合った空気は、このゴロゴロ人の寝ている病室の内に満ち溢《あふ》れた。隣の室の方からは子供の泣声も聞えて来た。時々お房の傍へ寄って、眼の上の白い布を取除いて見ると、子供の顔は汗をかいて紅く成っている。胸も高く踴《おど》っている。
上野の鐘は暗い窓に響いた。
「我もまた、何時までかあるべき……」
こう私は繰返して見た。
分ち与えた髪、瞳《ひとみ》、口唇――そういうものは最早二度と見ることが出来ないかと思われた。無際無限のこの宇宙の間に、私は唯《ただ》茫然《ぼうぜん》自失する人であった。
看護婦が入って来た。体温をはかって見て、急いで表を携えて出て行った。何時の間にか家内は寝台の向側に跪《ひざまず》いていた。私はお房の細い手を握って脈を捜ろうとした。火のように熱かった。
「脈は有りますか」
「むむ、有るは有るが、乱調子だ」
こんな話をして、
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