ような日が来た。
 私は庭に出て、子供のことを考えて、ボンヤリと眺め入った。樹木を隔てた植木屋の勝手口の方では、かみさんが障子を開けて、
「黒――来い、来い、来い」
 こう呼ぶ声が聞えた。
 二晩ばかり、私は家の方に居た。その翌《あく》る晩も、知らせが有ったら直に病院へ出掛ける積りで、疲れて眠っていると、遅くなって電報を受取った。
「ミヤクハゲシ、スグコイ」
 とある。九時半過ぎた。病院へ着く前に最早あの厳重な門が閉されることを思って、入ることが出来るだろうかとは思ったが、不取敢《とりあえず》出掛けた。追分《おいわけ》まで車で急がせて、そこで私は電車に移った。新宿の通りは稲荷《いなり》祭のあるころで、提灯《ちょうちん》のあかりが電車の窓に映ったが、そのうちに雨の音がして来た。濡《ぬ》れて光る夜の町々の灯――白い灯――紅い灯――電線の上から落ちる青い電光の閃《きらめ》き――そういうものが窓の玻璃《ガラス》に映ったり消えたりした。寂しい雨の中を通る電車の音は余計に私を疲れさせた。車の中で私は前後を知らずにいることもあった。時々眼を覚ますと、あのお房が一週間ばかり叫びつづけに叫んだ焦々《いらいら》した声が耳の底にあった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――」
 私は自分の頭脳《あたま》の中であの声を聞くように成った。同時に病院へ行けば最早お房はイケナイかしらんと、思いやった。須田町で本郷行に乗換えた。万世《まんせい》橋のところに立つ凱旋門《がいせんもん》は光って見えたかと思うと復た闇に隠れた。
 暗い時計台の下あたりには往来する人もなかった。私は門の外から呼んで見た。その時、門番が起きて来て、私の名を呼んで、それから厳しい門を開けてくれた。
「どうして私のことを御存じでしたか」と私は嬉しさのあまりに聞いて見た。
「ナニ、断りが有りましたからネ」と門番が言った。
 小児科の入口も堅く閉っていた。内の方で当番らしい女の声がして、やがて戸が開いた。分室へ通う廊下のあたりは、亜鉛葺《トタンぶき》の屋根にそそぐ雨が寂しい思を与えた。看護婦室の前で年をとった看護婦に逢ったきり、他には誰にも逢わなかった。やがて私は長い廊下を突当ったところにある室《へや》の前に立った。
「駄目かナ」
 と戸の外で思った。
 妙に私は手が震えた。一目に子供の運命が見られるような気がして、可恐《おそろ》しくて、戸が押せなかった。思い切って開けて見ると、お房はすこし沈着《おちつ》いてスヤスヤ眠っている。
 翌朝《よくあさ》は殊にワルかった。子供の顔は火のように熱した。それを見ると、病の重いことを思わせる。
「母さん何処《どこ》に居るの?」とお房は探すように言った。
「此処《ここ》に居るのよ」と母は側へ寄ってお房の手に自分のを握《つか》ませた。
「そう……」とお房は母の手を握った。
「房ちゃん、見えないのかい」
 と母が尋ねると、お房は点頭《うなず》いて見せた。その朝からお房は眼が見えなかった。
 この子供の枕している窓の外には、根元から二つに分れた大きな椎《しい》の樹があった。それと並んで、二本の樫《かし》の樹もあった。若々しい樫の緑は髪のように日にかがやいて見え、椎の方は暗緑で、茶褐《ちゃかっ》色をも帯びていた。その青い、暗い、寂《さ》びきった、何百年経つか解らないような椎の樹蔭から、幾羽となく小鳥が飛出した。その朝まで、私達は塒《ねぐら》とは気が付かなかった。
 燕《つばめ》も窓の外を通った。田舎者らしい附添の女はその方へ行って、眺めて、
「ア――燕が来た」
 と何か思い出したように言った。丁度看護婦が来て、お房の枕頭《まくらもと》で温度表を見ていたが、それを聞咎《ききとが》めて、
「燕が来たって、そんなにめずらしがらなくても可《よ》かろう」と戯れるように。
「房ちゃんのお迎えに来たんだよ」と附添の女は窓に倚凭《よりかか》った。
「またそんなことを……」と看護婦が叱るように言った。
「しかし、病院へ燕が来るなんて、めずらしいんですよ」
 こう附添の女は家内の方を見て、訛《なまり》のある言葉で言って聞かせた。その日、お房の髪は中央《まんなか》から後方へかけて切捨てられた。あまり毛が厚すぎて、頭を冷すに不便であったからで。お房は口も自由に利《き》けなかったがまだそれでも枕頭に積重ねてある毛糸のことを忘れないで、「かいとオ、かいとオ」と言っていた。時々|痰《たん》の咽喉《のど》に掛かる音もした。看護婦はガアゼで子供の口を拭《ぬぐ》って、薬は筆で飲ませた。最早《もう》口から飲食《のみくい》することもムツカシかった。鶏卵に牛乳を混ぜて、滋養|潅腸《かんちょう》というをした。
 皆川医学士を始め、医局に居る学士達はかわるがわる回診に来た。時には、学生らしい人も一緒に随い
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