中で、下口唇を突出すようにして、苦しそうな息づかいをした。胸が痛み、頭が痛むと言って、母に叩《たた》かせたが、もっと元気に叩いてくれなどと言って、どうかすると掛けてあるショウルを撥飛《はねとば》した。
 日の出が待遠しかった。私は窓のところへ行って見た。庭はまだ薄暗く、木立の下あたりは殊《こと》に暗かったが、やがて青白い光が朝の空に映り始めた。梢《こずえ》に風のあることが分って来た。テニスの網も白く分って来た。この静かな庭の方へ、丁度私達の居る病室と並行に突出した建築物《たてもの》があって、その石階《いしだん》の鉄の欄《てすり》までも分って来た。赤く寂しい電燈が向うの病室の廊下にも見える。顔を洗いに行く人も見える。お菊の亡くなる時に世話をしてくれた若い看護婦も通る。
「母さん――母さん――馬鹿、馬鹿――」
 と復たお房が始めた。「母さん、あのねえ……」などと言いかけるかと思うと消えて了う。
 上野の鐘は不忍の池に響いて聞えた。朝だ。ホッと私達は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
 小児科のことで、隣の広い室には多勢子供の患者が居た。そこには全治する見込の無いものでも世話するとかで、死後は解剖されるという約束で来ているものもあった。晩に来て朝に帰る親達も多かった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――ん――」
 この叫声は私達の耳について了った。どうかすると、それが歌うように、低い柔な調子に成ることもあった。
 友達や親戚のものはかわるがわる見舞に来てくれた。午後に私は皆川医学士に呼ばれて、大きなテエブルの置いてある部屋へ行った。他に人も居なかった。学士は私と相対《さしむかい》に腰掛けて、私に煙草をすすめ自分でもそれを燻《ふか》しながら、医局のものは皆な私の子供のことを気の毒に思うと言って、そのことは病院の日誌にも書き、又、出来得る限りの力を尽しつつあることなぞを話してくれた。その時、学士は独逸《ドイツ》語の医書を私の前に披《ひら》いて、小児の病理に関する一節を私に訳して聞かせた。お房の苦んでいる熱は、腸から来たものではなくて、脳膜炎であること――七歳の今日まで、お房はお房の生き得るかぎりを生きたものであること――こういう宣告が懇切な学士の口唇から出た。私は厳粛な、切ない思に打たれた。そして、あの子供を救うべきすべての望は絶えたことを知った。室へ戻って見るとお房は一時気の狂《ちが》った少女のようで、母親の鼻の穴へ指を突込み、顔を掴《つか》み、急に泣き出したりなぞしていた。
「房ちゃん、見えるかい」と私が言って見た。
「ああ――」とお房は返事をしたが、やがて急に力を入れて、幼い頭脳《あたま》の内部《なか》が破壊し尽されるまでは休《や》めないかのように叫び出した。
「母さん――母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」
 この調子が可笑《おか》しくもあったので、看護のもの一同が笑うと、お房は自分でも可笑しく成ったと見えて、めずらしく笑った。それから、ヒョットコの真似なぞをして見せた。
 寝台の側に附添っていた人々は、喜び、笑った。お房も一緒に笑ううちに、逆上《のぼ》せて来たと見えて、母親の鼻といわず、口といわず、目といわず、指を突込もうとした。枕も掻※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、153−13]《かきむし》った。人々は皆な可懼《おそろ》しく思った。終《しまい》には、お房は大声に泣出した。
 こういう中へ、牛込の法学士から私の子供が入院したことを聞いたと言って、訪ねて来てくれた画家があった。君は浮世絵の方から出た人であった。君の女の児は幼稚園へ通う途中で、あやまって電車のために引き殺されたということで、それを私に泣いて話した。この可傷《いたま》しい子供の失い方をした画家は、絶えず涙で、お房の苦しむ方を見ていた。
 今はただ幼いものの死を待つばかりである。こう私は二三の友達の許《もと》へ葉書を書いた。翌日はお房の呼ぶ声も弱って来て、「かあちゃん、か――」とか、「馬鹿ちゃん、馬」とか、きれぎれに僅《わず》かに聞えるように成った。家の方も案じられるので、私は皆川医学士に子供のことを頼んで置いて、それからちょっと大久保へ帰った。
 放擲《うっちゃらか》して置いた家の中はシンカンとしていた。裏に住む女教師なども病院の方の様子を聞きに来た。寂しそうに留守をしていた姪は、留守中に訪ねてくれた人達だの、種々な郊外の出来事だのを話して、ついでに、黒が植木屋の庭の裏手にある室《むろ》の中で四|匹《ひき》ばかりの子供を産んだことを言出した。幾度《いくたび》饑《う》え、幾度殺されそうにしたか解らないこの死《し》に損《そこな》いの畜生にも、人が来て頭を撫《な》でて、加《おまけ》に、食物《くいもの》までも宛行《あてが》われる
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