は漸く学士の方へ小さな手を出した。
少壮ではあるが、篤実な、そしていかにも沈着いた学士の態度は、私達に信頼する心を起させた。学士は子供の腸を洗ってやりたいと言ったが、不便な郊外のことで、近くに洗滌器《せんじょうき》を貸すところも無かった。家内は二三の医者の家を走り廻って、空しく帰って来た。
「一つ注射して見ましょう」
こう学士が、病児の顔を眺めながら、言出した。
家内はお菊の胸の辺《あたり》を展《ひろ》げた。白い、柔い、そして子供らしい肌膚《はだえ》が私達の眼にあった。学士は洋服の筒袖を捲《まく》し上げて、決心したような態度で、注肘の針に薬を満たした。
「痛いッ」
お菊は泣き叫んだ。鋭い注射の針は二度も三度も射された。
間もなく私はこの病児を抱いて、車で大学病院へ向った。学士も車で一緒に行ってくれた。途次《みちみち》小児科医の家の前を通る度に、学士は車を停めて、更に注射を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時に、この児は最早駄目だ、と私は思った。
病名は消化不良ということであった。この急激な身体の変化は多分夏蜜柑の中毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々にお菊は変って行った。それから二時間しかこの児は生きていなかった。
大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋《とりすが》って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
お菊は矢張《やはり》長光寺に葬った。親戚や知人《しるべ》を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
菊 子 の 墓
繁 子 の 墓
愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。
お菊が生前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子《こうし》にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマラない」
こう家内は口癖のように嘆息した。
私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚《さら》われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命《いのち》は根から動揺《ゆすぶ》られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
と私は言って見た。
麻疹《はしか》後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着《おちつ》き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具《おもちゃ》の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居る動物園へ寄っても「早く吾家《おうち》へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。
草木も初夏の熱のために蒸される頃と成った。庭には木犀の若葉もかがやいたし、植木屋の盆栽棚には種々な花も咲いたし、裏の畠の方には村の人達が茶を摘んでいたし、何処へ行っても子供に取っては楽しい時であった。お房は一寸遊びに出たかと思うと、直に帰って来てゴロゴロしていた。お繁やお菊で私達も懲《こ》りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服《の》ませて、癒したいと思って、医者の言う通りに、消化の好い物だの、牛乳だの、山家育ちで牛乳が嫌だと言えばミルク・フッドだの、と種々にしていたわった。お房は腸が悪いとのことであった。不思議な熱は出たり引いたりした。
五月の下旬に入っても、まだお房は薬を服んでいた。勧めてくれる人があって、私はある医者の許《ところ》へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健《じょうぶ》そうな年寄の医者は、熱のために萎《しお》れた娘を前に置いて、根本から私達の衛生思想が間違ってい
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