えなくなりました……」
 と復た家内が言って、洋燈《ランプ》の灯に自分の手を照らして見ていた。
「オイ、オイ、馬鹿なことを言っちゃ困るぜ」私は真実《ほんとう》にもしなかった。
「いえ、串戯《じょうだん》じゃ有りませんよ、真実に見えないんですよ……洋燈の側なら何でも能く分りますが、すこし離れると最早|何物《なんに》も分りません」
「俺の顔は?」
 私は笑わずにいられなかった。
 その時、家内は手探り手探り暗い押入の方へ歩いて行った。しばらく私もそこに立って、家内の様子を眺めていた。
「早く医者に診て貰うサ」
 と私は励ますように言って見た。
 翌日になると、明るい光線の中では別に何ともないと言って、家内は駿河台《するがだい》の眼医者のところまで診て貰いに行った。滋養物を取らなければ不可《いけない》――働き過ぎては不可――眼を休ませるようにしなければ不可――種々《いろいろ》に言われて来た。
「一つは粗食した結果だ」
 この考えが私の胸に浮んだ。私は信州にある友達の厚意を思って、成るべくこの仕事をする間は、質素に質素に、と心掛けたが、それを通り越して苛酷であった、とはその時まで自分でも気が着かなかった。
 日の暮れないうちに、と家内は二人の娘を連れて買物に出掛けた。その日は、私も疲れて一日仕事を休むことにした。縁側に出て庭の木犀《もくせい》に射《あた》る日を眺めていると、植木屋の裏の畠の方から寂しい蛙の鳴声が夢のように聞えて来る。祗園の祭も近づいた、と私は思った。軒並に青簾《あおすだれ》を掛け連ねた小諸本町の通りが私の眼前《めのまえ》にあるような気がして来た。その辺は私の子供がよく遊び歩いたところである。
「ヨイヨ、ヨイヨ」
 御輿《みこし》を舁《かつ》いで通る人々の歓呼は私の耳の底に聞えて来た。何時の間にか私の心は山の上の方へ帰って行った。
 宿無し犬の黒は私の前を通り過ぎた。この犬は醜くて、誰も飼手が無い。家《うち》の床下からノソノソ這出《はいだ》して、やがて木犀の蔭に寝た。そのうちに、暮れかかって来た。あまり子供等の帰りが遅いと思って、私は門の外へ出て見た。丁度二人の娘は母の手を引きながら、鬼王《きおう》神社の方から帰って来るところであった。
「父さん」とお房が呼んだ。お菊も一緒に成って呼んだ。
「遅かったネ」と私は言って見た。
「今しがたまで、繁ちゃんのお墓でさんざん泣いて来たんですよ」こう家内はそこへ立留って言った。「帰りに八百屋へ寄って、買物をしていましたら、急にそこいらが見えなく成って来て……房ちゃんや菊ちゃんを連れていなかろうものなら、真実《ほんと》に私はどうしようかと……」
「最早《もう》見えないのかい」
「街燈《ガス》の火ばかし見えるんですよ……あとは真暗なんです」
「さあ、房ちゃんも、菊ちゃんも、お家へお入り」
 暮色が這うようにやって来た。私達は子供を連れて急いで門の内へ入った。
 こういう私の家の光景《ありさま》は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪《きりさげがみ》にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達《せんだつ》とかで、植木屋の老爺《じい》さんの弟の連合《つれあい》にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷《きとう》を勧めて帰って行った。
「御祈祷して御貰い成すったら奈何《いかが》です――必《きっ》と方角でも悪かったんでしょうよ」
 と植木屋の老婆《ばあ》さんは勝手口のところへ来て言った。義理としても家内は断る訳にいかなかった。
 その日から家内は一人ズツ子供を連れて駿河台まで通った。暑い日ざかりを帰って来て、それから昼飯の仕度に掛かった。信州の牧野君からは手紙の着くのを待つ頃であった。それを手にして見ると、「自分の子供の泣声を聞いたら、さぞ房子さん達も待つだろうと思って、急に手紙を書く気に成った――約束のものを送る」としてあった。私はこの友達の志に励まされて、あらゆる落胆と戦う気に成った。家内には新宿の停車場前から鶏肉だの雑物《ぞうもつ》だのを買って来て食わせた。この俗にいう鳥目《とりめ》が旧《もと》の通り見えるように成るまでには、それから二月ばかり掛かった。
 翌年の三月には、界隈《かいわい》はもう驚くほど開けていた。この郊外へ移って来て、近くに住む二人の友達もあった。私の家では、四番目の子供も産れていた。はじめての男で、種夫とつけた。姪《めい》も一人郷里から出て来て、家からある学校へ通っていた。この月に入って、漸く私は自分の仕事を終った。
 私も労作した。この仕事には、殆んど二年を費した。牧野
前へ 次へ
全15ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング