事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思ったが、いかにも周囲《まわり》が気に入った。で、二度ほど足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、そこを借りることに決めた。
 この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早《もう》梅に遅い位であった。山一つ越えると高原の上はまだ冬の光景《ありさま》で、それから傾斜を下るに従って、いくらかずつ温暖《あたたか》い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間《たにあい》には浅々と麦の緑を見出《みいだ》すことが出来た。浅間、黒斑《くろふ》、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこいらは眼が覚めたようで、何もかも蘇生《そせい》の力に満ち溢《あふ》れていた。五箇月の長い冬籠《ふゆごもり》をしたものでなければ、殆《ほと》んど想像も出来ないようなこの嬉しい心地《ここち》は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
 漸《ようや》く春が来た。北側の草屋根の上にはまだ消え残った雪があったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。子供等は私の帰りを待|侘《わ》びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。私は郊外に見つけて来た家のことを言って、第一土地の閑静なこと、樹木の多いこと、地味の好いことなどを話して聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが何よりも嬉しいという風で、上京の日は私よりも反って家内の方に待遠しかったのである。その晩、お房やお菊は寝る前に私の側へ来て戯れた。私は久し振で子供を相手にした。
「皆な温順《おとな》しくしていたかネ」と私が言った。「サ――二人ともそこへ並んで御覧」
 二人の娘は喜びながら私の前に立った。
「いいかね。房《ふう》ちゃんが一号で、菊《きい》ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
 二人の娘は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷《すばしこ》く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃないよ、房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
 大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中を躍《おど》って歩いた。
「へい、三号を見て下さい」
 と山浦というところから奉公に来ている下女も
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